近代日本を代表する知識人の一人である和辻哲郎(1889-1960)の、きわめて多彩でかつ多岐にわたる業績を、和辻自身が使用している「表現」という用語・概念において、大正七年頃より昭和九年頃までの期間を追跡し、分析すること。本論文はそうした体裁をとっている。そこでは、あたかも、和辻がその初期から「表現」について独特の思想的曲様を持っており、それを発展し変容させていくなかで、近代日本思想史上きわめて独特な、いわゆる「和辻倫理学」が形成されるという「事実」があったかのような論述が目ざされている。だが、あらゆる思想史的叙述がそうであるように、この体裁もまた、ある逆倒によって作り上げられたものであることは告白しておかなければならない。すなわち、和辻哲郎が「表現」ということがらに与える最大の重要性を与えたのは、和辻倫理学の確立の宣言である昭和九年の『人間の学としての倫理学』においてであり、あるいはその先駆稿である昭和六年の論考「倫理学」においてであった。周知のように和辻倫理学とは、「人間存在のありよう」を「間柄」として見ることにその特徴を持つ倫理学であるが、この「間柄」の実践的かかわりあいは、われわれが日常におりなす言葉・行為・伝統・見方などによる「表現」においてすでにあからさまにあらわれているのであるから、そこへ接近するには、認識論的な分析ではなく、ただこの「表現」の分析によってのみなしえると主張された。だが、なぜこのように「表現」だけが特権的に重要視されたのか。本論文の実際の出発点はこうした問題意識であって、それをアリアドネーの糸とすることによって、われわれはその「起源」を、大正七年の「表現」まで遡った。本論文は、この分析を反転させ、時間系列にしたがって並び替えたものに他ならない。だから本論文が一種の「物語」を語ろうとしているように見えても、それは伝記的な事実叙述とは一線を画している。本論文は、和辻の思考に対して事実的な立場ではなく、あくまでも権利的な立場に立って論じているからである。
このようにして権利的な立場によって論じている本論文ではあるが、それでも個々の「事実」の裏付けには最大の注意が払われている。当たり前のことではあるが、「事実」の布石がなければ「権利」への跳躍はありえず、また逆に「権利」へと跳躍したとしても、それが着地するのはやはり「事実」の地であるからである。こうした「事実」と「権利」とをつきあわせることで、本論文は先行する和辻研究、あるいは近代日本思想研究に対して、いくつかの新たな筋道を開拓できたと信じる。以下、論文を要約する。
Ⅰ「「表現の問題」の醸成」では、のちの和辻倫理学で重要とされる「表現」を、その構造における特異性に注目して「表現の問題」としてまとめ、それが問題として醸成された背景が探られる。「表現の問題」とは、表現と表現されるものとが乖離し、表現されるものの箇所に空虚が開くという構造を「表現」に見る独特の視点のことをいう。この「表現の問題」を引き出したきったけとしてわれわれが注目するのは、大正八年におこった和辻の第二子の死産という「事件」である。この「事件」は、和辻に仏教への関心、さらに仏像を通じての古代日本への関心へと導くことになった。さらには、仏像および古代日本への着目を、ギリシャ神像および古代ギリシャと比較することによって、和辻はそこに二つの様式の決定的な差異を見出してゆく。この差異の意識をさらに明確にするために、和辻は古代日本研究へと沈潜する。だが古代日本研究は、それまで素人くさい論述にとどまっていた和辻に、本格的な学問研究の方法を身体的に覚え込ませる契機としても作用した。それは津田左右吉の学問業績への出会いであり、その吸収と対抗を和辻は目標にする。津田の学問の方法を吸収することで和辻は文献解釈の方法を身につけ、さらに津田とは別様の解釈の方向をも開く。津田は、記紀の比較においてその共通点のみを取り上げて核心として示したが、和辻は逆に、共通点の選択で取り除かれる夾雑物のほうが重要であり、たとえば古事記においては、この夾雑物においてこそ古代日本人の心性の「表現」がなされていると主張したのである。こうした方法論における意図的な対抗は、「表現」が単に様式の差異にとどまっておらず、学問的方法論の差異としても注目されるその淵源となるものであると思われる。第5節ではさらに、「表現の問題」の核心をなす「通路」ということがらについての、大正十四年より昭和二年頃までの和辻の考えが考察される。
Ⅱ「表現としての人格」においては、「表現の問題」の強力なバリエーションの一つであった人格論について考察がなされる。阿部次郎を代表とする大正期の人格主義の思潮の中にあった和辻哲郎もまた、自己の内面をいかに表出するかという、内面性重視の発想から出発していた。和辻においても当初は、人格とはこの内面性・精神性のことであったが、後年の和辻はこの人格観を反転させる。それは、内面には触れずに徹底的に表面的である「面=ペルソナ」を人格のモデルとする人格観へと変容するのである。この変容は「表現の問題」の醸成と軌を一にしていたと見ることができる。通常の表現概念が、表現されるものを一種の内面性・内部性として前提し、それを「外へ発出する」という考えであるのに対して、「表現の問題」は、この内面性=表現されるものの場を空虚にして、徹底して表面的であることを重視したからである。青年期に文学者を目ざした和辻にとって、人格とは最初から表現に結びついていたものであったが、その概念の反転についても、人格と表現とは結びつき、同時に反転していたのである。このことをわれわれは、大正九年から昭和二年にかけて集中して行われた和辻の宗教研究を分析することにおいて示そうと試みる。『原始キリスト教の文化史的意義』と論考「沙門道元」とは、まったく同時期に連載しながらも、別の人格観を基礎にする二つの論攷であったが、それは特に『聖書』と『正法眼蔵』における二つの表現の差異として和辻に把握された。「表現の問題」による人格観、すなわち「ペルソナ」としての人格はこのうちの後者にその萌芽をみることができるものである。さらにこの分析から『原始仏教の実践哲学』へと向かう論理的繋がりが示され、和辻の人格論の中心として『原始仏教の実践哲学』があることの論証がなされる。
和辻は『原始仏教の実践哲学』を人格論として、特にその特殊な形である無我論として分析を行う。そこで重視されたのが縁起論である。縁起論こそは和辻にとって、無我論の立場を守りながらも人格の代替の役割を担うものとしてあった。この縁起論の分析のさなかに、「もの」性を剥奪された「かた」としての法という考えが引き出され、「ペルソナ」としての人格ということがらとより親和的に結合することになる。さらに第8節においてはこの時期の「かた」の考えが、どのような具体的なありようを想定して出されているかが考察される。
Ⅲ「人格から間柄へ」においては、こうした「表現の問題」、「かた」としての人格ということがらを考察していた和辻が、ドイツ留学後、みずからの倫理学の構造を構築するありようが考察される。ここで中心の問題となるのは、西田幾多郎とハイデッガーという東西を代表する二人の思想家との対峙ということである。われわれはこの対決のありようを、昭和五年に西田が和辻に宛てた書簡を導入として、「人格」と「表現」についての問題として考察を試みる。和辻が、西田・ハイデッガーと対峙するのは、特にカント読解によってであり、その様子は昭和六年の論考「人格と人類性」に示される。この両者に対決することで影響をうけた和辻は、『原始仏教の実践哲学』で完全に剥奪したはずの「もの」性の重要さを逆に認識させられる。この「もの」性の恢復は、和辻の論自体に奇妙なねじれを生じさせることになった。すなわち論考「人格と人類性」において、「もの」と「こと」という区別を「人格」と「人類性」とに重ね、『原始仏教の実践哲学』以来の観点によって後者こそを中心に論じようと意図していながらも、西田やハイデッガーの行論に引きずられ、論調自身が前者に傾いていってしまうのである。さらには、「人格」と「人類性」とのアマルガムこそがわれわれの生の実際のありようであると考えることで、人格という考えの有用性が薄れ、「人間」(にんげん・じんかん)という新たな把握の仕方にかわられるようになった。「人間」という把捉のしかたは、一方でマルクスの著作を精密に読解することで着目された「社会」の問題と関わりつつ、「個と全体」との弁証法的統一体として考えられ、「間柄」とも呼ばれた。だが問題となるのは、論考「人格と人類性」において示された「もの」性と「こと」性において人格を見るという視点と、個人性と全体性とにおいて「人間」を見る視点とがあきらかに異質なものでありながら、和辻の論理のうえで共存していたらしいということである。この共存において人格から間柄への論理的移行が可能となる。逆にいえば、異質な二つの論理がどのようにすり合わせられるのかが和辻倫理学誕生の重要な鍵となるのである。このすり合わせはどのようになされたか。このすり合わせの果てに、ふたたびあの「表現の問題」と「通路」の問題が全面にあらわれるのだが、それはどのようにしてだったか、さらにはそうした操作において誕生する和辻倫理学がなにをあらかじめ失っていたのか。それらを論じることで本論文は閉じられる。