中世南西フランスのガスコーニュに関する研究はながらく、いわゆる「英仏百年戦争」の起源に関する議論と結びつけられ、アキテーヌ公たるイングランド王とフランス王の封建関係に焦点が絞られていた。ガスコーニュの被統治者層へ研究者の関心が向けられたのは比較的最近のことである。こうした近年の動向に照らして、本論文では13世紀後半のエドワード1世によるガスコーニュの統治を、「空間」と「コミュニケイション」の観点から再評価した。「コミュニケイション」はアキテーヌ公であるイングランド王とガスコーニュの家臣あるいは住民の間の「恩顧配分(パトロネジ)」による結びつき、あるいは対立・和解といったせめぎ合いの諸相であり、「空間」は「コミュニケイション」が成立する「場」「舞台」である。「空間」と「コミュニケイション」の両者は相互補完的な関係にある。より具体的には、エドワード1世統治下の1273年からガスコーニュ戦争が開始される1293年までのおよそ20年間を時間軸に設定し、公領統治の中で被統治者層に関わる二つの側面、官職保有と上訴の実態を解明することが本論文の考察の中心である。
序論部分ではこれまでの研究史を批判的に検討し、使用した未刊行・刊行史料を提示し、合わせて本論の前提となる13世紀後半におけるガスコーニュの政治経済状況を概観した。
本論部分は3章からなる。第1章「公領の政治地理」においてガスコーニュの政治地理と諸要素を確定し、有力家門を抽出し、王=公の支配基盤を明確にした。エドワード1世はアキテーヌ公として領邦君主であるだけでなく、筆頭バン領主でもあった。王=公はガスコーニュにおいて、直轄領と移動封という二つの権威の基盤を強固に作り上げた。ガスコーニュのほぼ全域において、王=公の直轄領の存在が確認できる。分散した直轄地は役人たちを通じて管理され、各地の領主たちに対してエドワード1世は、遠方に存在する主君としてではなく、強力な隣人としての存在感を示した。大部分の都市共同体も王=公の直接権威下に置かれ、特に上級裁判権を保持する都市政府は王=公の直轄地の中心地であり、また、アルフォンス・ド・ポワティエ統治期の遺産であり、エドワード1世自身も建設に加わったバスティドは地方のレヴェルにまで王=公の権威を浸透させる橋頭堡であった。ガスコーニュの中心部は国王直轄領と移動封によって構成される一方で、周縁部は法的帰属が曖昧で輪郭は明確でない。ガスコーニュは明瞭な形をもつ「領邦(プランシポーテ)」と言うよりは、アモルフな「統治空間」である。
第2章「宮内府と公領統治組織」ではエドワード1世のガスコーニュへの滞在を検討するとともに、被統治者層の官職保有の特質を解明した。1286年から1289年の3年弱のガスコーニュ滞在の際、エドワード1世が辿った巡幸路は王=公の現実の権威が及ぶ空間=「統治空間としてのガスコーニュ」を雄弁に語っている。このような広大な空間を統治するためには、効率的な統治組織だけでなく、被統治者層に官職を分け与える、いわゆるパトロネジ(恩顧配分)が不可欠であった。本論では一般に息子のエドワード2世に比して、注目されてこなかったエドワード1世のパトロネジ政策を再評価し、エドワード1世がガスコーニュに滞在した1286-1289年の3年間を被統治者層が「宮内府騎士層」として、王=公の周囲に参集する契機と考えた。法的な意味での封主=封臣関係に加えて、一種の金銭契約的なネットワークが王=公とガスコーニュ貴族の一部に構築されつつあった。また、ガスコーニュにおいて、王=公は自らの領有する広大な直轄領の収入の一部を割いて、彼らに官職を与えている。こうした宮内府に属したガスコーニュ貴族がセネシャル代理以下の官職を保持し、公領統治の一翼を担ったのである。
第3章「上訴と和解」では、ガスコーニュの住民によるパリのパルルマンへの上訴行為を具体的な案件に基づいて考察し、これまでの研究史によるフランス国王権力の伸長と裁判組織の制度的発展という側面を強調する議論を相対化することを目指した。上訴事由の検討から、イングランド王の役人による「不正・侵害・暴力」に関する申し立てが最も一般的と考えられてきた「偽判」をはるかに上回る件数で確認できた。当該時期に国王直轄地の拡大と確保を図り、土地や権利を集積しようとするイングランドの役人の活動が活発化し、聖職者層を中心とする住民との間に摩擦が増大していることがうかがえる。それに対し、エドワード1世の統治期にはパルルマンの介入は限定的であった。パルルマンでの訴訟はしばしば長期化し、差し迫った案件の解決には適していなかった。少なくともガスコーニュにおける、公領政府役人と有力貴族層との紛争の解決においては、上訴当事者双方が法廷外の解決の可能性も追求した。特に有力領主や宮内府関係者は上訴を取り下げることで、有利な条件で和解することが可能であった。その一方で、上訴は当事者たる王=公とガスコーニュ住民の関係の断絶ではなかった。上訴者による「上訴の取り下げ」や「服従」と王=公による「好意の回復」が繰り返されることで、双方の合意による緩やかな秩序が形成されたのである。
ガスコーニュは外部の支配者によって征服され、移植された法によって統治され、経済的に搾取された土地ではない。王=公とガスコーニュ貴族層との個人的な紐帯、パトロネジによる官職授与、貴族層や都市勢力との紛争時における交渉による介入といった継続的なコミュニケイションによって維持されていた。また、王=公と利害を共有する貴族層や都市民層が統治に参加することで、行政が運営され、公領内の秩序が保たれていた。ガスコーニュは、イングランドに対して相対的自律性を保持しつつ、プランタジネット家の広域支配圏の一部をなしていたのである。こうしたコミュニケイションによる統治が最も有効に機能したのが、1286-1289年のエドワード1世のガスコーニュ滞在時の3年間であった。逆に、13世紀末以降、イングランド王がイニシアティブを取って、コミュニケイションを維持できなくなれば、統治空間も綻びを見せたのである。