本稿は、ソヴィエトの小説『静かなドン』(1928-1940年)とその周辺の言説の分析をとおして、小説を生んだソヴィエト社会主義リアリズム文学体制の全体主義的メカニズムをさぐる。

第1部
第1章
『静かなドン』批評の第1局面(1928-1932年)において、小説第1、2巻は、プロレタリア的作品であるとも、同伴者的、あるいは白軍寄りの作品だともみなされた。過激なプロレタリア批評(ラップ)からの攻撃はショーロホフを再教育する名目で行われたが、実際にはそれは、ラップの活動・存在意義を創出するための自己目的的な言説の運動であった。そして主人公グリゴリーと作者とが、その「揺れ」を克服しつつボリシェヴィズムに辿りつくという「最大抵抗路線」のプロットは、作品それ自体によって提供され、ラップの批評活動に不可欠なエネルギーを与えた。特にこのエネルギーの源泉となったのは、小説中の「客観主義」「平和主義」「人間主義」「生物学主義」「自然主義」などであり、これらは「コサック民族主義」の現れとして批判の標的、克服対象となった。「コサック」は、イデオロギーや階級性に関係なく、すべての人々を「生物学的」に平等に結びつけてしまう概念だからである。初期批評はこぞってこうした要素の根絶を強く要求したのであり、ここに、階級闘争の物語ではなく、「自然性から意識性へ」という物語(K・クラークの定式化した社会主義リアリズム文学のマスター・プロット)が見出せるが、実はそれらこそが、批評の言説自体、そして物語の言説自体を成り立たせているのである。

第2章
『静かなドン』第3巻が発表された第2局面(1932-1937年)において、第1局面における「客観」という語が根本的な意味の転倒を被る。第1局面における「客観主義」が、階級理解の欠如を意味する否定的な語であったとしたら、社会主義リアリズム文学制度の創出されたこの時期に多用されはじめた「客観的現実」という語は、すでに存在するプロレタリア的な「現実」を指していた。そして『静かなドン』とその作者は、すでにこの「客観的現実」の一部に組み込まれている(「最大抵抗路線」を作者はすでに克服している)とみなされ、全体主義的な文学体制への『静かなドン』の取り込みが批評の解釈によってなされた。ここで言われる「客観的現実」とは、言語的に仮構されたものにすぎない。だがそれは単なる虚偽ではなく、「社会主義リアリズム」のテクストが言語的につくりだすべきものであると同時に、その「リアリズム」によって描写される対象でもある。この循環的な論理によって、ソヴィエトの言説・表象の領域において、「客観的現実」が強制的に打ち立てられた。それゆえ、批評はもはや、『静かなドン』に現れる欠点を政治的には批判しない。社会主義リアリズム批評はこうして政治から美学への転換をはかり、描かれた「客観的現実」に入った亀裂や、形象の「典型」性とその分裂を問題にしはじめる。
「典型」(特に肯定的主人公)は「客観的現実」に合致するものとして創作されねばならないが、しかしそれに従いすぎると「図式主義」に陥ってしまう。そこで典型的形象の差異化・芸術性が求められる。それが「これ」性(エンゲルス)の概念であるが、「これ」性は「典型」性と融合しないため、形象が分裂してしまう。これが社会主義リアリズム文学の芸術上の困難であった。それは『静かなドン』にも見て取れるが、この作品においては、肯定的とも否定的とも言えないコサックが主人公であるため事情が異なる。揺れる「中農コサック」の典型性とは、それ自体が「これ」であるという、特殊な典型性であった。

第3章
スターリンの主導する農業集団化を語った『開かれた処女地』第1巻(1932年)は、『静かなドン』と異なり、最初から模範的な社会主義リアリズム文学作品とみなされ、農業集団化に向けた闘争の武器となった。集団化は、現実の農村には飢餓や暴力をもたらした出来事であり、『開かれた処女地』はそのような悲劇を喜劇に変えてしまう虚偽的・プロパガンダ的作品であるとして、ソヴィエト体制の外部では否定的に論じられている。だが社会主義建設を語るべきテクストは、その新たな「客観的現実」によってとってかわられるべき別の「現実」の破壊の痕跡を、否応なく己の中に刻み込む。この問題は、建設や破壊を行う典型的形象の創出の論理をとおして考えることができる。この論理に従って矛盾する要求のせめぎあいのなかでつくられていく形象は、分裂し、その行動は無意味なものと化していく。批評はそれを一斉に批判したが、それは、体制と批評の活動の無意味な自己運動性を露呈するものであった。


第4章
ソヴィエト文学の「期待の地平」であった「最大抵抗路線」は、『静かなドン』第4巻(1940年)の発表によって崩れ去った。赤になるべき揺れるコサック、グリゴリーが、すべてを失いコサックであることさえやめるというところで小説が終わったからである。批評はすぐにこの作品をイデオロギー規範に組み込む作業に取りかからねばならなかった。そのとき、批評の言説のなかに「読者」の存在が浮かび上がってくる。ソヴィエト文学の言説はこのときまでに、プロの批評よりも優位に立ち作者や生活に密着した、新しいソヴィエト読者像を創出してきた。『静かなドン』の結末と齟齬をきたした批評の言説は、読者の名において小説を承認することとなった。この第3局面では、小説を認める「非-批評」=読者と、認めないイデオロギー強硬派とのあいだで、主人公の典型性をめぐる議論が闘わされた。前者が主人公の形象の内部に分裂を見出したのに対し、後者は形象が外的に分裂している(芸術的に失敗している)と主張したのである。議論の過程で見出された支配的な見解は、グリゴリーはソヴィエト公式史観の「鉄の法則性」によってはじきとばされたのだ、というものであった。この結論は、ソヴィエト体制の正当性・絶対性を裏づけると同時に、それに弾圧された者の悲劇をも語る。ここから言えるのは、『静かなドン』は、そのソヴィエト体制のイデオロギー性を徹底させることによって、普遍的な芸術的価値を得たということである。この逆説は、社会主義リアリズム文学のマスター・プロットである「最大抵抗路線」の政治的な妥協性を露わにするものでもあった。

第2部
第5章
ここまでの章では、ソヴィエト文学体制の立場から作品を論じてきたが、第5、6章では本稿による作品読解を行う。第5章では、内戦期のコサック自治主義と、ソヴィエト政権のコサック解体政策の歴史を参照しながら、この作品が、コサック叙事詩と革命の物語(「最大抵抗路線」)との並存(ないし分裂)からなっていることを示す。重要なのは、主人公の歩む道のりは、どちらとも完全に一致することなく揺れているという点である。しかし主人公は揺れることによって、革命期の「動揺するコサック」全体の代表者(典型)へと主体化していく。このコサック概念は、赤や白の政治信条、あるいは階級性とは関係なくコサック全体を統合するものであるが、まさにそのことによってソヴィエト政権による無差別的なコサック弾圧を可能にした。小説が語るのは、この内容を欠いたコサック概念が、グリゴリーの命運を規定していく過程である。

第6章
同時代批評は主として小説の政治的な側面から議論を行っていた。恋愛物語としての『静かなドン』、そして女性の形象は、そこから取り残されている。だが小説におけるセクシュアリティの要素、そして女性の非政治性こそが政治性を規定しているのだということを、本章は明らかにする。小説は実際、女性を政治の領域から完全に排除しているようである。だがコサック解体政策(男性コサックの物理的=肉体的な絶滅を目指す側面があった)を描く物語においては、その対象となるはずの男性主人公のかわりに、彼の周辺の女性主人公たちが壮絶な死を遂げていく。政治的であるということは、敵であっても政治的な再生可能性を与えられていることを意味するが、非政治的なものは、政治によっては変えられない。女性の身体におけるこの不変のもの(「生物学的な」コサック性)が、コサック解体政策の本当の対象なのであり、また同時に政治的に揺れ動く登場人物とテクスト(赤と白や政治的出来事の記述に引き裂かれたテクスト)に一貫性を与えるのである。

第3部
第7章
『静かなドン』はその出版のたびに数々の検閲修正を被ってきた。本章は、その修正の痕跡をとおして、社会主義リアリズム文化=検閲文化のテクスト生産の論理を考察する。この文化において、作家・編集者・検閲官のあいだに明確な境界線を引くことはできない。そのような特殊な主体をつくりだした契機の一つとして、第1回ソヴィエト作家大会直前の1934年の言語浄化闘争が挙げられる。そこでの議論は、なめらかで統一的な言語を求めて、「ごつごつとした」「民衆の言語」を攻撃し、無意識的なものを意識によって駆逐しようとする。だが意識の全面化としての検閲文化は、実はそれ自体が無意識的な自己懲罰的欲動に支えられている。それは「民衆」という他者を攻撃しながら、自己表象を問題にしているのである。同じ意識に支えられて生じたのが、スターリン時代末期の言語浄化の波である。このときに行われた『静かなドン』の検閲の記録を、アーカイヴ資料等をとおして辿ることによって、己をなめらかに表象しようとする検閲の運動が、逆にテクストを寸断するのだということを論じる。

第8章
『静かなドン』には発表当時からショーロホフによる盗作だという説があった。本稿は、この盗作説が、社会主義リアリズム文学体制と関係をもっているという観点から論じる。反体制知識人が1970年代に論争を再開したことからも、この問題に横たわるイデオロギー性は明らかであるが、近年の盗作研究は、主に『静かなドン』のテクストそのものの分析に向かっており、テクストの分裂性・断片性をえぐりだす作業を行っている。それが作者の分裂すなわち盗作説につながると考えているからだ。だが、第1部で検討したように、テクストの分裂という問題は、社会主義リアリズム文学の美学規範が必然的に生み出してしまう特徴でもあり、また検閲や批評や権力上層部が作家とともにテクストを生み出す社会主義リアリズム文化において、テクストの主体はつねに複数的なのである。それゆえ、盗作論自体も、「真の作者」の同一性をテクストに見出そうとするその意図に反して、盗作の証明ではなくテクストの分裂性の証明へと導かれていく。