理性の行使に基づいた都市的生活を営むこと。この生の規範は16世紀以降のヨーロッパにおいてその内実を徐々に変容させつつ、やがて18世紀中葉に「文明/文明化」の語を生み出して、19世紀において特異な展開を示す。本論文は、このような過程を歴史的に跡付けるいわば文明の系譜学としての性格を持つが、あまりに大きな課題を前にしての議論の拡散を防ぐべく、一方では、都市的生活ないし社会への異質性を露呈する三つの形象、すなわち〈隠遁者〉、〈野生人〉、〈蛮人〉の諸形象の系譜の検討を通して問題に接近し、他方では、〈啓蒙の世紀〉の暮れ方からフランス復古王政期にかけて活動を行った作家・政治家であるフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの作品の理解へと議論を収斂させることとした。全体は五部に分かれる。

Iシャトーブリアン、パスカルの不実な弟子
『キリスト教精髄』の著者は、1802年のこの護教論の企てを『パンセ』になぞらえるが、実際には彼の転倒的なキリスト教理解は、パスカルとの意図せざる対立によってこそ際立った形で現れている。彼のパスカル理解は18世紀におけるパスカル受容に決定的に影響されており、ヴォルテールによるパスカル批判の論旨をそのまま転倒するところに成立するものである。すなわち、ヴォルテールは『パンセ』の悲観的な世界観を批判し、社会的有用性としての道徳に関心を示さないばかりでなく、世界全体を苦しみの相の下で捉えようとする病人として、パスカルを非難していた。それに対し、シャトーブリアンはパスカルを、健康な人物として捉え返すのではない。むしろ病人だからこそ評価するのである。原罪以後の人間を本質的に病んだ存在と見なす『キリスト教精髄』において、パスカルはそのような病人の英雄としての地位を与えられている。

IIシャトーブリアンにおけるキリスト教と文明
とはいえ、『キリスト教精髄』は、単にそのような社会への異質性の顕揚のみから成り立っているのではないし、この護教論は美的観点からのみキリスト教を擁護しているのでもない。本作品の第4部では、この宗教が文明の維持、伝播と発展にいかに貢献したかが説かれる。しかもその際、作家はヴォルテールやルソーら、理神論的傾向に立つ哲学者たちをも味方に付けるのである。第4部のこの主張は、毀誉褒貶の甚だしかったこの著作にあって、その敵によってすら攻撃されることのない例外的部分をなしている。もっとも、宗教の文明発展への貢献を語り、啓蒙の光とキリスト教の調和を打ち立てるこれらの記述において、シャトーブリアンは独自な見解を披露しているのではない。このような立場はむしろ18世紀において典型的なものであり、「文明(civilisation)」の語が当初キリスト教の社会的有用性の文脈で用いられたことからも知られるように、反哲学者の陣営は、哲学者たちと共通の語彙、共通の理念を掲げて闘っていた。この観点からするなら、『キリスト教精髄』の主張は、啓蒙の世紀の護教論を、ひときわ雄弁に展開したものにすぎないということもできる。しかし、本書がそのような立場に還元しえないことは、彼がキリスト教の文明への奉仕の二つの主要な事例として掲げる、宣教と修道院の役割の称賛を、この両者の18世紀における評判と照らし合わせることで明らかになる。文明の保護者としての宗教を語るシャトーブリアンであるが、修道生活の礼賛は、そのような立場とはそぐわない。蛮人の侵入によるローマ帝国の解体期における修道院の役割を語る彼の記述は、そこここで隠遁者と蛮人の気質を共振させる。そして文明の使者である宣教師でさえも、荒野の隠遁者に、そしてまた彼が文明化すべき野生人との共鳴を示すのである。

III野生人と蛮人
フランス語は、アメリカ先住民を名指すために「野生人(sauvage)」の語を採用した。本研究第3部では、このフランス的例外の意味を見極めることに努める。まずは、このフランス語に由来する英語savageとの比較を行った後、次いでアメリカ征服期スペインにおける、先住民の身分規定をめぐる議論が検討される。黄金世紀のスペインは、発見された人民をその神学的・法学的身分規定を論じるときに「蛮人(bárbaro)」と名指した。この語は、基本的にはトマス・アクィナスの自然法理論の枠組の内部で解釈されつつも、論者の立場に応じて様々にニュアンスを変える。スペインの事例との比較から明らかになるのは、同じ16世紀のフランスにおけるアメリカ先住民をめぐる議論が、やはり自然法との関係でこれらの人民を理解しつつも、その政治的賭け金においてほとんど一致することがないという事実である。さて17世紀になると、フランス人はそのカナダ植民の展開にもかかわらず、アメリカ先住民を論じることをほとんどやめてしまう。しかし、そのことはフランス人の意識から野生人が消滅したことをまったく意味しない。社交界の礼節との関係で、野生の気質は概ね批判的観点から道徳的考察の対象となっていた。このような文脈において、野生人は新世界の人民であるよりも、むしろ厳格な信仰心ゆえに世俗の交わりを避ける隠遁者の像に結び付けられた。

IVモンテスキューにおける野生人と蛮人
モンテスキューの『法の精神』の眼目は、フランク人が彼らの森から持ち込んだ諸制度からの、フランスの国制の発生を跡付けることであるが、そのため彼は、このゲルマニアの牧畜民の蛮人としての性質を正面から取り扱うことになる。この作品の第18巻で、モンテスキューはフランク人を初めとする蛮人とアメリカ先住民に代表される野生人とを「土地を耕さない人民」という共通のカテゴリーに括って論じているが、それにもかかわらず、両種の人民にはほとんど共約不能な隔たりがあるように見える。両者の差異の検討を通して、モンテスキューが野生人の語の理解に際して前提としているものを明らかにする。

Vシャトーブリアンにおける野生人と蛮人
彼の国民の先祖たるフランク人とガリア人、この両蛮人についてのシャトーブリアンの理解を跡付けるに先立ち、ブーランヴィリエとデュボスの論争以来、復古王政期のギゾーやティエリに至るまでのフランスの歴史記述を概観する。ブーランヴィリエが帯剣貴族の擁護のために持ち出した、征服者フランク人と被征服者ガリア人の分断の論理は、革命後の自由主義者たちによって、ガリア人の末裔として観念された市民階級による権力の再獲得の展望へと転換される。シャトーブリアンがこうした文脈の中で占める興味深い位置を、彼が『歴史研究』において提起する「蛮人=ローマ帝国」の概念を参考にしつつ見定める。
シャトーブリアンはフランク人のもとにもガリア人のもとにも、文明と蛮性の共存する両義的性質を認めようと望む。一方、野生人はといえば、問題なのは「心的野生人」であると彼自身によって明言されており、彼自身のファンタスムの投影にほかならない。シャトーブリアンはそれを一旦は新世界の人民のもとに見出しうると信じるが、結局は彼らは野生人ではないと断言することになる。かくしてアメリカはもはや他の場所と同じ一つの土地にすぎず、そこに住まう人民は、社会状態の不在という観念を宛がわれる代りに、それぞれに独自の習俗と政体を持つものとして脱神話化される。そしてそのことにより、外部に投影されることをやめた「心的野生人」は、ヨーロッパの諸個人の内部へと送り返されるのである。

こうして本論文は、ともすれば西洋人にとっての「我々と他者」(トドロフ)の問題――西洋による非西洋の表象の問題へと一般化されがちな主題を、〈隠遁者〉、〈野生人〉、〈蛮人〉の三つの形象の役割の変遷に着目することによって再歴史化する。都市的な生からの隔たりによって特徴付けられるこれらの形象は、基本的にはヨーロッパ内部に見出されていたこと、なるほど「他者」ではあろうが、それはしばしば「我々」の内なる他者でもあったことが明らかにされる。この観点からするなら、19世紀前半におけるシャトーブリアンの作品の意義は、世紀全体を通してますます勝ち誇ることとなる「文明」への異質性を誇示する世紀後半の芸術家たちへの橋渡しを、こうした伝統を引き継ぎつつ果たしたものとして理解することができよう。もちろんその一方で、まさにこの同じ世紀を通し、西洋と非西洋の分割はますますその自明性を堅固なものとしていったのであり、都市の只中に内なる野生人としてのボヘミアン的芸術家を抱え込んだこの世紀は、〈文明化の使命〉に駆り立てられたヨーロッパ諸国が外なる野生人のもとへと競って赴いた世紀でもある。そしてシャトーブリアンのうちにはこのような分割を支える論理もまた、見出すことができる。こちらの問題を論じるには別の研究が必要となろうが、その場合でも、先立つ時代を扱った本論文の成果は、不可欠の前提として役立つはずである。