ピンダロス祝勝歌研究―4つの考察

小池 登

本論文は、徹底的な個別論をもって構成され、論じられる4つの考察は、意図的に総論を形成しないものとして提示される。それは本論文が基本的問題意識として、エルロイ・バンディーの問題提起より40年余を経た今、ピンダロス研究において必要とされるのは、大きな総論ではなく、祝勝歌全体の個別網羅的再読なのであり、それはピンダロス研究の基礎をなすものとして、例えば、読みの蒐集を担う基礎作業としての写本学や、読解の前提作業としての辞書編纂にも匹敵するような、根本的要請の一つとして行われるべきものであると考えるからである。
「我々はピンダロスの一文一文を、再読する必要がある」。本論文は、このテーゼをその底辺に据えて、ピンダロス祝勝歌の徹底的再読に挑むものである。しかしながらこれは、およそ一個人の能力を超えた一大要件である。ゆえに本論文の目的は、二重のものとなる。すなわち、片やその主目的は、この一大要件に対して、小さくとも確実な一歩を踏みしめることで寄与をなすことにある。本論文はまずもって、その小さな一歩一歩を踏む再読の集合として、ピンダロス祝勝歌3400余行のうちのたとえ幾許かについてでも確実な議論をせんとするがゆえに、敢えて総論を排し、徹底的な個別論として提示される。
しかしまた、この作業が一個人の能力を超えたものであるがゆえに、本論文はその副目的として、以下のことを想定している。すなわち、バンディーによって端緒が付けられ、その後、いくつかの研究によって受け継がれながらも、今や、まるで超克されたかのごとく忘れられつつあるように見えるこの一大要件について、再びその必要性へと実例をもって注意を喚起し、研究の結集を促すことである。
第1章は、『ピューティア第1歌』85-92行を扱う。ここで問題となるのは、二人称の指示対象の同定である。この問題について、以前の議論は、これを本歌に歌われる勝利者ヒエローンを指すとするか、あるいはその息子デイノメネースを指すとするかの二者択一に終始しており、一つの重要な先行研究によって、その決着は着けられている。
しかしながらここで、一つの素朴な疑問が、全くと言って良いほど議論の対象にならないことに、驚かざるを得ない。すなわち、問題となる箇所の直前81-84行における二人称表現は、歌い手自身への呼びかけとなっている。そして85行との間に、二人称の指示対象の変化を明示する指標は存在しない。ならば85行以下も、歌い手自身を指すと考えるべきではないのか。実際のところ、もし従来の考え方のように、ここに対象の移行を認めるならば、ピンダロス祝勝歌全体においてパラレルの見出だし難い、特異な移行を認めることになる。
本章はこの素朴な疑問より出発して、祝勝歌における二人称表現の特色を明らかにしつつ、本歌85-92行についてその文脈をつぶさに確認し、最終的に、本箇所の二人称表現は歌い手自身を指すと解すべきであるとの結論に達する。特に難点となりうるのは89-90行であるが、そこにおいても、ピンダロス祝勝歌のパラレルを勘案することにより、十分に説明可能である。85-92行について、二人称・勝利者説と同・歌い手説の両者を天秤にかけつつ、祝勝歌のパラレルに照らし合わせながら各箇所を解釈してゆくならば、後者によるほうがはるかに説得的な全体像を描けるのである。
第2章においては、『ピューティア第9歌』79行における指示代名詞の指示対象を同定する。この問題については、これを直前の単語「時宜」を受けるとすべきか、文脈を考慮してそのさらに手前、本歌に歌われる勝利者テレシクラテースを指すとすべきか、議論が紛糾している。しかしあらためてその議論を確認するならば、実のある論争が行われているというよりは、結局のところ、バンディーの示した祝勝歌理解を受け入れるのか否かという、立場表明の場と化しつつあることを確認できよう。
本章は、その論争から一歩身を引き、今一度、祝勝歌本文に向き合うことを目指す。ここで重要になる論点は、祝勝歌おける「勝利の列挙」のモチーフのもつ特色を再確認することと、さらに古の賞賛の実例を列挙するという手法を勘案することである。
本箇所前後の措辞と文脈をあらためて確認するならば、そこに一つの結論を明瞭に導き出すことができるであろう。本章は、本箇所の指示代名詞が直前の単語「時宜」を指すこと、しかもこの代名詞が分詞句の目的語ではなく主語となっていることを確認する。それはまた、論争やまぬこの箇所において、バンディーによって引き起こされた議論が、皮肉にもむしろ祝勝歌そのものへと向き合うことを妨げていた可能性を示唆するものでもある。
『オリュンピア第6歌』82-84行を取り上げる第3章は、大胆な比喩を使うピンダロスという一般的理解が、いかにギリシャ語本文の理解を妨げていたかを示すとともに、一単語の語義を再確認するという、ごく単純な手続き一つを皮切りに、いかに本箇所が明快に理解可能であるかを示さんとするものである。
本箇所において、従来「感覚・印象」を意味するものと解されていた語は、実のところ、そのような意味を持ち得ない単語である。研究史上、幾度かその指摘がなされてきたにもかかわらず、あいかわらず、無根拠にこの意味でもって本箇所を解釈することが、まかり通っているのである。
本章は現在主流となっている解釈の問題点を明らかにしたうえで、問題となる単語の意味を限定し、さらに問題点の山積するこの数行について、その一つ一つを解決してゆくものである。問題となる単語はあくまでも「名声」の意、それも「歌い手の名声」ではなく、「勝利者の名声」を表すものである。さらに前後の文脈を確認すれば、アルカディアの民からシュラークーサイの民へと称賛の対象を転換する、その結節点に本箇所は存する。その明確な枠組みの中、82-84行の表現を一つ一つ同定し、さらに幾つかの読みの修正の採択を経ることで、本箇所の確かな読解が可能となる。
前3章に対してやや大きな文脈を論じる第4章は、最も難解であるとされつつも、バンディー以降の研究成果により概して解明の域に達しつつある『ピューティア第2歌』について、特にその難解さを担う最終部分を67行以下から捉え直し、歌の脈絡を辿ることを目的とする。
概して解明の域に達しつつあるとは言うものの、従来の解釈においては、67行以下は結局のところ「補遺」として扱われ、歌の論述の連鎖はそこで断絶したままである。果たしてこの断絶の接続は可能か。問題点は明白である。すなわち67行は、終わりを強く意識させる箇所なのである。直前では、勝利者の直接讃美が終えられている。歌はその最大のクライマックスに達し、勝利者讃美・神話・勝利者讃美という輪構造を完成させている。そして67行には「さようなら」を意味しうる表現が来る。歌が終わるのは当然のようである。
しかし祝勝歌の類例をつぶさに見てゆくとき、現代人にとっては当然と思えるこの予感が、根拠のないものであることが明らかとなる。すなわち、文脈においても措辞においても、本箇所は終わりを予感させるようなところではなく、むしろ歌が次の展開を待ち望んでいる箇所なのである。67-71行は、62行に始まる勝利者の直接讃美を、輪構造をもって閉じるものであり、72行以下は、勝利者の直接讃美に入る直前、すなわち49-61行を受け直し、発展させるものであることが、確認できる。
以下最終トリアスについて、歌の論の展開を追ってゆくとき、そこには、悪言を避け、称えられるべきを称えるべしという、一連の展開を確認することができるであろう。67行以下は、本歌の論述の展開の中に、明確に接続可能なのである。
また付論として『ネメア第7歌』が取り上げられる。問題多きこの歌について、その解明を目指すことは容易ではないながらも、最低限の状況整理と、理解への見通しを示すことが、その目的である。
本歌は常々、バンディー的な祝勝歌理解の限界を示す歌として、言及されてきたものである。そしてとりわけ焦点となるのが102-104行であったわけだが、現時点における重要な先行研究を確認してゆくだけでも、いかに以前の議論が偏りのあるものであったか、明らかとなろう。とりわけ言説動詞と否定辞の結合性をめぐる議論は、象徴的なものと言える。概して本箇所は、もはやバンディー的な祝勝歌理解の障害とはならないことが、確認できる。
対するに、現在においてもいくつか大きな難点が残っている。特に問題となるのは、第一に、50行も前に終わったネオプトレモスの神話が、なぜここで蒸し返されるのかという疑問であり、そして第二に、歌の結尾部分としての本箇所における、一人称表現の理解である。
しかしこれらの点においても、祝勝歌パラレルの中で、十分に説明可能であろう。すなわちここで重要なのは、片や、被称賛者のための祈りの中で被称賛者と称賛者が対置されるという文脈の理解であり、片や、祝勝歌の中で、目下歌われている当の歌が、神や英雄の名でもって名指されるというパラレルの確認である。先入観を排して祝勝歌本文に向き合うならば、難解とされる本歌も、十分に理解への見通しが得られるはずである。

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