柳宗悦(1889―1961年)は、近代日本において宗教哲学、民芸運動、仏教美学という諸領域にわたって多彩な働きをなした人物である。彼が残した業績、後代への影響は実に大きい。多方面に渡る業績を遺した柳宗悦は、生涯にわたって宗教に関わる一連の問題意識を抱えていた。本研究はこれに注目し、近代日本の宗教論の一例として柳をとりあげ、考察したものである。言い換えれば、本論の焦点は「近代日本における宗教言説」を生み出したものとしての柳宗悦を問題にする。近代日本の知識人には、宗教について深く洞察し多面的な業績を遺した者が少なからずいた。だが、これまでの近代日本宗教研究は、そうした宗教論をあまり重視してこなかったきらいがある。柳はその生涯を通じ、諸々の領域を次から次へと渡り歩いたが、彼を支えていたのは常に、根本理念としての宗教的不二論であった。それにもかかわらず、彼の思想的基盤となる宗教思想については、他の領域に比べ微々たる先行研究しかないのが現状である。
柳宗悦の宗教思想とその実践には、東洋と西洋、仏教とキリスト教、日本と韓国、民芸と西洋美術、知識人と労働者の問題など、諸領域における歴史的な対立関係を背景に背負っている。柳の不二論的宗教思想はこうした問題を問い、そうすることで彼は諸方面における業績を残すことができたのである。異質なもの同士が衝突しあう近現代、宗教的不二論は、宗教の果たすべき役割を示唆している。これはマクロなレベルとより身近なレベルでの貢献とに分けられるだろう。マクロなレベルにおいては、不二論は異文化の共存を実現する助けとなる。グローバル化がますます進行する現代、共生という目標が人類の共通課題となるいっぽうで、宗教間・文化間・民族間の排他的な紛争が拡大している。柳の宗教論は、自文化の独自性を認識しつつも、排他的な自民族中心主義に堕していない。個々の文化と、現代人の普遍共通の目標とを、不二の全体構造において示そうとする姿勢が柳にはある。またミクロなレベルでは、現代人が日常生活の場面で、宗教的な生き方をどのように確立していくかということにつき、柳の不二論は一つの見本を提供してくれる。
柳宗悦の宗教的不二思想をめぐっては、いくつかの大きな問題が関わってくる。まず問題となるのは、柳が規定する「不二」概念の性質そのものである。「不二」の語は、大乗仏典『維摩経』のいわゆる「沈黙の答」に由来する。言葉をもって説くこと自体がすでに、本来的なるものに分別をくわえ、区別や対立を設けてしまうことになる、と維摩経は説いている。ただしこれは推象的かつ非論理的な表現であるため、現代人にとっては理解し難いものとなっている。柳宗悦の不二論的宗教思想は、こうした概念をブリコラージュ的に利用したものといえる。
また、柳が宗教的不二思想を展開した時代は、政治的・経済的・文化的な強者である西欧列強が、弱い立場の東洋に圧力をかけるという、不平等な関係が存在していた。後に後発の帝国となった日本は東アジアの文化圏を抑圧し、両者の間には不均等な関係が存在していた。そうしたなかで近代日本ナショナリズムは、不二関係を強制するシステムをつくりあげたのである。柳は「不二の問題」を普遍的な思想と考えていたが、実際にはそうではなかった。彼の思想もまた、効率の観点や支配関係の強弱に基づき、異質な価値を飲み込む時代状況と無縁ではなかったのである。従来の柳研究でも、こうした問題点が指摘されている。
こうした歴史背景のなかで、柳は最終的に、多文化・多民族共生への道を探り、二元を超える宗教原理の構築という独自の答えを見出した。それは、宗教、芸術、および民衆の三者間での不二論的相関関係を追う、独特の思想である。本研究はこれら三者間相互の関わりを確認し、またそれぞれにみられる不二思想を検討するものである。もちろん、その背景をなす不二論的宗教思想の形成過程も視野に入れながら論じていく。このような作業によって、不二論的宗教思想の全体構造と、諸業績間の相互関係をつかみ、宗教言説としての柳の宗教思想の独自性を考えた。
本論では、柳宗悦の生涯を三つの時期に分けて考える。それらは、宗教哲学者、民芸運動家、仏教美学者という活動枠組みにも対応している。時期的には、それぞれ第Ⅰ部初期―『白樺』期(1889-1923年)、第Ⅱ部中期―「民芸」運動期(1923-1945年)、第Ⅲ部後期―「不二」の綜合文化期(1945-1961年)と分けられる。この分類は先行諸研究に従うものである。この区分は、それぞれの時期における仕事の質や量により分類されたものである。
それぞれの時代区分についてより深く理解するためには、全体構造としての宗教的不二論を考察し、それが多方面での仕事にどのような影響を及ぼしていたかを明らかにする必要がある。そのため、第一に、実証史料に基づき、柳の思想形成過程を整理した。第二に、柳を同時代の思想家たちと比較し、彼らとの同質性と異質性を見ていくことにした。比較に際してとくに重んじたのは、柳と直接の関わりがあった思想家たちの宗教言説との比較である。柳と同様に宗教的不二思想の確立をめざした人々は、彼とのあいだにどのような共通点と差異をもっていたのか。その違いを明らかにすることで、柳の宗教思想の特質を示した。柳の思想は、ある方面においては近代日本をリードするものであった。本論ではそうした局面を中心に論じながら、その意義を探った。
また本論では、柳が遺した諸領域での業績を、時代を反映した出来事と捉えた。柳が思想し行動したのは、現在よりも社会的制約の厳しい時代であった。現代に生きる筆者が、現代の判断基準をもって客観的に柳を評価することができるのか。また、柳が出した業績を時代的な文脈から切り離すことはできるのか。このような問題は、柳の宗教論を論考する際につきまとうものであった。本論では、柳が示す「美の宗教」を、世俗化の時代における宗教の新たな相を示すものと捉えた。また、柳と朝鮮との関係を視野に入れ、それが柳の宗教理念を客観的に評価するための一つの基準になると考えた。柳を創立者とする「民芸」運動もまた、近代という時代が課す新たな課題への取り組みである。これについても、自文化を認識するうえでの東西における態度の比較を行うことができると考えた。
≪構成≫本論は三部に分かれており、その内容はさらに以下のような下位区分に分けられる。第Ⅰ部は三章から成る。この部全体では、柳が宗教的不二思想を形成するまでの過程を論じた。歴史的問題としては、近代的な自我の萌芽、大正生命主義、社会主義と人道主義への姿勢、東洋と西洋についての再考といった事柄を論じている。これらの問題に対応する柳の業績としては、以下のものをとりあげた。
まず第一章で、『白樺』に寄稿された文章を中心に、初期の思想と仕事の特徴を論じた。第二章では、柳のウィリアム・ブレイク研究に焦点を合わせる。柳は近代日本思想に新たな地平を切り開いていくことになるが、そのきっかけはブレイク研究にあった。初期の柳はブレイクの思想を通じて、西洋と東洋における不二思想の交着点を考察したのである。第三章では、学習院時代の師であった鈴木大拙と西田幾多郎の宗教理念を念頭に置きつつ、東西思想の超克をめざす柳の宗教哲学を論じる。このように第Ⅰ部では、初期の柳における宗教的な不二論認識、およびそれと芸術観や人間観との関連を考察した。
第Ⅱ部では中期の柳を扱い、二つの章から成る。この部全体で論じるのは、宗教的な思索を経た柳が、今度は目に見える「民芸」を通して社会理論を構築しようとしたことについてである。言い換えればこの部では、柳にとっての芸術と美の意味を考察した。歴史的な問題としては、日本帝国主義の植民地下にあった朝鮮王朝、そして「日本美術」の創出と「民衆」の概念をとりあげた。これらに対応する柳の仕事としては、第一章において朝鮮民族の芸術についての著述活動、および彼の他国観と不二論の関係を考察した。第二章では、岡倉天心や九鬼隆一による「日本美術」の創始に触れ、そのうえで柳の民芸運動を論じた。柳は「民衆」を「民族」に従属するものとして認識したが、この見方についての考察を加える。また、ラスキンやモリス、そしてペンティらのギルド社会主義理念に共感を示す柳の著述を具体的に読んでいき、そこにみられる宗教思想についても触れる。
第Ⅲ部では後期の思想を取り上げる。本論ではこの時期を、「不二」の綜合文化期と命名した。この部に納められた二章は、いずれも柳が最終的に向かった地点について考察している。それは、宗教と美と民衆とが不二となる「無対辞文化」の世界であり、「美の宗教」という理想の状態であった。歴史問題としては、戦後の平和理念に注目した。第一章では、戦後の平和的な宗教思想を示す著作活動を中心に論じた。第二章では、「宗教」と「美」をめぐる議論の到達点となった、「美の宗教」論をとりあげ、これを現代の我々の問題として捉えた。また、第Ⅰ部と第Ⅱ部で形成された不二論と、第Ⅲ部の宗教的不二思想とのあいだの一貫性についても考察した。
結論部では、柳の宗教的不二思想について具体的に説明し、そこにみられる問題意識を考察した。また、柳の限界とされる点についても、現代の宗教学説に即して改めて考え直そうと試みた。世俗化時代における宗教の位置づけを焦点に、この作業を行っている。