ヘレニズム期の哲学を代表する学派の一つであるストア派は、「あらゆることが運命に即して生じる」とする運命論を説いた。このストア派の運命論をめぐっては、ヘレニズム期からローマ帝政期にかけて、賛否双方の立場から多くの議論がなされた。その焦点となったのは、運命論がいわゆる「自由意志」の存在を否定してしまうのではないかという問題である。これは現代に至るまで論じ続けられている決定論と自由意志の問題の歴史的起源と言え、哲学史的にはもちろんのこと純粋に哲学的に見ても興味深い論争となっている。
運命論の問題をめぐるこの時代の個々の哲学者・学派による議論については、すでにかなりの研究の蓄積がある。しかし、それら様々な立場からの議論を全体的に考察し、一貫した視点から論じた研究はいまだない。そこで、運命論の立場をとるストア派の議論と、他の様々な立場から運命論を批判している議論とをそれぞれ再検討したうえで、このような運命論をめぐる対立の根幹がどこにあるのかを見定めることが、本論文の課題となる。

第Ⅰ部ストア派の運命論
第1章「ストア派の「運命」概念とその起源」では、ストア派の「運命」概念について、その起源を辿りながら検討した。ストア派は、「運命」を宇宙全体に行き渡り個々の事物を造り出す「ロゴス=神」と同定し、それをさらに因果的な連関や継起として捉えた。このようなストア派の「運命」概念は、当時の一般的な「運命」概念だけでなく、ストア派以前ないし同時代の(とくにアカデメイア派による)哲学的議論からの影響のもとに成立したと考えられる。
第2章「ストア派の運命論とその証明」では、ストア派の運命論の特徴を、近代の決定論との比較を交えつつ明らかにした。一種の因果的決定論として捉えられるストア派の運命論は、ラプラスに代表されるような近代の決定論と通じる点も多い。しかし、ストア派の運命論は、機械論的な因果的決定論ではなくむしろ目的論的決定論と言うべきものである点で、さらには、「運命」を出来事間の因果連鎖としてではなく事物間の連関として捉えている点で、近代の決定論とは異なる。また本章では、運命論の「証明」としてストア派の代表的哲学者であるクリュシッポスが挙げた議論を、合わせて批判的に検討した。これらはいずれも厳密な意味での「証明」とは言えないものの、ストア派の哲学体系や時代的制約を考慮すれば、一定の意義と説得力を帰することができる。
運命論が「自由意志」の存在を否定するのではないかという問題に対するストア派の基本的な立場は、クリュシッポスによって明確に示され、それが運命論をめぐる以後の論争の出発点となった。それはすなわち、運命論によっても「自由意志」の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場である。第3章「クリュシッポスの「両立論」」では、クリュシッポスがこのような「両立論」を擁護するために論じた二つの議論を検討した。第一の「怠惰な議論」の反駁は、何を行為しても無駄であることになるという帰結をもたらす「宿命論」としてストア派の運命論を捉える見方を、誤解として退ける議論である。第二の円筒の類比による議論は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因はそれぞれの人間の性向にあるという点に、「自由意志」の存在を確保しようとするものである。この議論の根底には、それぞれの人間にとって性向こそがいわば「本当の自分」であるが、それは世界の一部であって「超自然的」なものではない、とする世界観・人間観があると考えられる。
第4章「ストア派の運命愛」では、ストア派の運命論のもつ積極的な意義が、「運命愛」と呼びうる考え方に見出されることを論じた。「運命愛」の考え方は、初期ストア派のクリュシッポスの考え方にはそぐわず、後期ストア派のものであるとみなす解釈が、S.Bobzienによる最近の研究で提示されている。これに対して本章では、クリュシッポスの「両立論」などについてのBobzienの解釈を批判的に検討することを通して、「運命愛」の考え方は本来クリュシッポスの立場と齟齬するものではなく、むしろクリュシッポスの議論自体にもその考え方が垣間見えることを示した。

第II部運命論に対する批判
ストア派の運命論は、クリュシッポスによる「両立論」の試みにもかかわらず、その後も執拗な批判を受け続けた。本論文では、現存する運命論批判の著作の中でとくに重要な、キケロ『運命について』とアフロディシアスのアレクサンドロス『運命について』の二つを取り上げる。
しかしその前に、第5章「エピクロス、ルクレティウスにおける「原子の逸れ」と「意志」」で、エピクロス(派)の「原子の逸れ」の学説について検討した。この学説は、元来はストア派の運命論に対する批判として論じられたものではなかったが、後にストア派の運命論をめぐる論争で引き合いに出されることになる。原子の逸れというものが、自由な「意志」の存在にとって必要なものとして導入されたことは確かである。しかし、それが「意志」にとって具体的にいかなる積極的な役割を果たすとされるのかという点については、現代の非決定論的な自由意志論を応用した諸解釈が提案されているものの、現存する乏しい資料から一つの結論を導くのは困難であることを確認した。
第6章「カルネアデスによる運命論批判――キケロ『運命について』から――」では、キケロが賛同する立場として紹介するアカデメイア派のカルネアデスによる議論を中心に検討した。カルネアデスやキケロの議論は、エピクロスの学説の「改善」として論じられたものや、ストア派の議論との「調停」を試みたものなど、一見したところ彼らの考え方に寄り添うものであるかのようにも思える。しかし、人間の心やその意志を「超自然的」なものとして捉えている点で、それらも「自然」の一部であるとみなすストア派(やエピクロス派)とは、根本的に対立していると考えるべきである。
第7章「アフロディシアスのアレクサンドロスによる運命論批判――理性と性向――」では、アフロディシアスのアレクサンドロスが、アリストテレス主義者としての立場から運命論を批判した議論を検討した。アレクサンドロスの主張に反して、本来のアリストテレスの立場は、行為がそれぞれの人間の性向のあり方によって決定されるという点に「自由意志」の在り処を見る点で、むしろストア派の立場に近かったと考えられる。これに対してアレクサンドロスは、性向からも自由であるような選択可能性にこそ理性的な存在としての人間の本質が存すると考えている点で、アリストテレスから離反しているのである。この背景には、悪をなす可能性を少しももたない人間を理想的と考えるか、それとも、悪をなす可能性を抱えながらも善き行為を選択する人間こそ理想的と考えるか、という人間観の根本的な相違があると考えられる。アリストテレスやストア派は前者の考え方を保持していたのに対して、アレクサンドロスには後者の新たな人間観の芽生えが見られるのである。


ストア派の運命論をめぐる古代の議論を、現代のわれわれはどう評価すべきだろうか。本論文の結びとして、第8章「古代の議論をどう読むべきか?――現代の議論と関係づけながら――」では、古代の議論を現代における決定論と自由意志の問題をめぐる議論と関係づけながら、この問いに答えることを試みた。ある行為が自由意志によってなされたと言えるためには、その行為をした時点でその行為とは別のことを選択することもできたのでなければならないとする「選択可能性原理」は、自明なもののようにも思われる。しかし、近年この選択可能性原理を否定し、決定論と自由意志の問題を論じるにあたっての枠組自体の転換を求める主張がなされており、そのような主張は古代の議論の解釈にも影響を与えている。本章では、古代の議論についての近年の解釈に見られるその影響を、批判的に検討した。その検討を通して、決定論と自由意志の問題の根幹は、選択可能性原理の是非にあるのではなく、むしろ「自己」の捉え方の相違にあるという見方を提案した。すなわち、「自己」を性向なども含めた大きなものとして捉えると、自由意志についての両立論的な理解が可能になるが、性向もまた「本当の自分」にとっては外的なものであるとみなし、それからも自由であるような小さな「自己」を求めるならば、非両立論をとらざるをえなくなるのである。古代においても現代においても、決定論と自由意志の問題は、このように「自己」の捉え方をめぐって争われているのではないか。これが、本論文がくだす哲学史的かつ哲学的な診断である。