本稿は明治4(1871)年に締結された日清修好条規について、明治3年に行われた仮条約交渉から明治5年の日本政府による条約受入に至るまでの日清外交の展開を、日清双方の史料の他、英米の史料をも用いて実証的に跡づけることで、条約の意義を総体として捉え直すとともに、当該期の日本の対清政策と清国の対日政策、それぞれの特質を明らかにした。
日本は幕末以来、清国との間に通商関係を開くことを試みたが、それは個別の事案の交渉にとどまり、成功しなかった。維新からほどない時期から新政府は、東アジア外交の展開策の一環として、大使を派遣し清国との外交関係を樹立しようと図った。当時掲げられた目標は、欧米列強と清国との間に結ばれた条約と同様の条約を日清間に締結することにあった。明治2年12月、木戸孝允の対清派遣が決定された際には、朝鮮問題の解決をも課題に付け加えられた。先行研究においては、朝鮮問題の解決の糸口とするために、朝鮮の宗主国たる清国との条約締結が先に目指されたと理解されてきたが、対清交渉は、朝鮮問題とは別の本来独立した課題を有していたと思われる。
天津教案の勃発によって、木戸の遣清が中止されたのち、柳原前光らの建言により対清交渉は再び活性化した。清国に派遣された柳原らは、将来における条約締結の約束を得、欧米諸国同様の権益を明記した条約草案を清側に手渡すという、予想外の好結果を得ることができた。
柳原の帰国後、欧米諸国との条約改正という日本側の要因が加わったことで、日本と欧米諸国との間に締結された条約のかたちを真似た、片務的な条約草案(津田真道草案)が作成された。この草案の提出を可能とした背景には、柳原らの尋常ならざる努力の成果があったと考えられ、その成功をうけて、対清交渉に次なる目標を設定したと考えられる。しかし清国へ渡った伊達宗城使節団は、李鴻章らの強硬な姿勢の前に、清側の草案をもとにした修好条規に調印を余儀なくされ、日本側の計画は頓挫した。
伊達が帰国すると、日本の国内政治勢力、あるいは英米の駐日公使らが日清修好条規第二条の案文を問題とする事態が待っていた。日本政府は、岩倉使節団による対欧米外交の展開に悪影響が及びかねないことを危惧せざるをえなくなった。このような状況下に日本政府は、できたばかりの条約に関して清国と再び改訂交渉をする必要に迫られた。その際、日本側は第二条の問題解決を重視したが、清国側が最も反対していた最恵国待遇や内地通商などの条項には言及することがなかった。このように、日本の対清外交は、英米との協調下に推進された。その結果、柳原は第二条の削除など当初の目的を果たすことなく帰国することとなったが、清側に続約締結を約束させ、さらに第二条の語義について英米側の懸念を解くような説明をさせるなどの妥協案を得ることには成功した。第二条に関する清側の説明によって、英米の反発を終息させえたことが、条約の批准に日本政府が踏み切った最大の要因であったと考えられる。
この時期における日本政府の対清外交政策の特徴は、前半期においては、段階的に目標を設定しその実現を目指したものと評価でき、後半期においては対欧米外交と対清外交との利害が正面衝突するに際して、対欧米外交を優先し対清外交に対して退嬰的な姿勢を採ったといえる。代表的な先行研究の一つである藤村道生氏の研究は、当時の日本の対清外交を「小中華主義」から「小西欧主義」への路線転換という明確な図式で説明する一方、永井秀夫氏の研究はその図式を批判して日本の対清外交には明確な路線などなかったとするが、実際は、段階ごとの明確な目標設定がありながらも、外交情勢の変化に応じてとるべき方策がさまざまに模索されたと評価すべきであろう。
清国においては、幕末期になされた日本からの通商要求に対し、上海道、上海通商大臣、総理衙門など外交を担当する部署によって意見が一致せず、通商を允許した後に生じる問題を懸念した総理衙門は、日本からの通商要求に否定的な姿勢をとった。健順丸の来航段階では、上海限定の通商が一応認められたが、その際にあっても総理衙門は日本に対する慎重な姿勢を変えようとはしなかった。しかし、総理衙門の後ろ向きの態度とは対照的に、李鴻章は日本が敵にも味方にもなりうると考え、日本の戦略的な位置の両義性を指摘しつつ、日本を清側に引き付けるべきだとの立場をとったと考えられる。先行研究では、条約締結を拒否する総理衙門の頑なな態度を変えさせた要因について、専ら李鴻章と成林の積極性に帰し、とりわけ欧米列強の介入を防ぐべきだという李の進言が総理衙門を動かしたとされてきた。しかしこの見方は必ずしも正確とはいえない。日本との貿易に関して詳細な「章程」を締結することは、日本を規制すべきだとする総理衙門の主張を具体化した措置ともいうことができるからである。他方で柳原の締約要求を総理衙門が受け入れたのは、日清「提携」論という李の主張によるというよりは、柳原の極めて積極的な行動への対応に窮した結果とみるのが正当だろう。総理衙門は当初、柳原らの渡清目的を、幕末と同様の通商関係の樹立を求めるものとして理解し、「大信不約」の照会を発して条約締結はむしろ不要であるとの意向を示した。しかし、柳原らの条約草案を受け取るや、欧米列強の介入の可能性に配慮し、将来における条約締結の意思を示す方向へと対日方針を転換したのである。
清国側の条約草案を作成した陳欽は、当初、対日条約を起草した際、最恵国待遇などを削除し、清国における日本の権益の拡張を封じ込むほか、日本からの侵略を防ぐ措置として、属国を含めた不可侵を明記する箇条を挿入した。このようにみてくると、陳欽の構想では、条約自体が日本を規制するものと考案されていたことがわかる。このような構想は「章程」締結が検討された際にも確認できる。陳の草案は応宝時や李鴻章らによってさらに検討が加えられたが、当初の方針は維持されている。最終的な草案において、陳は日清の「相互援助」を思わせる第二条を新たに盛り込むことにより、日本との「提携」関係を形成しようとしたが、日本を牽制する条項をさらに増やしたと意義もあった。
以上要するに、清国側の対日外交方針を一言でいえば、それは日本警戒論とでもいうべきものであったといえよう。陳欽は日本との修好関係を強調するため条約の性質を変えたとはいえ、「章程」の立案以降、日本の規制を基調とする、一貫した方針を堅持していたといえる。最近進められつつある研究には、李鴻章の主張や陳欽の構想を過大視し、この時期の清側の対日政策を「聯日」路線と位置づけるものが多いが、締約交渉に関する清側の政策決定過程から見れば、それは必ずしも実情に一致しているとはいえない。
この時の欧米列強は、天津教案の勃発などにより清国との外交関係を悪化させており、在日各国公使はこれまで以上に日清関係に過敏になっていたものの、日本政府の進める条約締結など日清交渉の進展には反対せず、むしろ協力的な姿勢を打ち出していた。それは駐日各国公使が日本政府の要請に応じて清国宛の紹介状を出したことからもわかる。ただ、修好条規の第二条の内容が明らかになって以降、「日清同盟」成立の可能性を憂慮した列国は日本政府に圧力をかけ、該条の削除を強く求めた。結果として、欧米列強の、第二条に対する態度が条約の改訂交渉、さらには批准交換に関する日本政府の決定を左右した。従来の先行研究においては、欧米列強は日清の外交関係の展開を強く警戒していたとするが、そうした見解は以上の考察によって修正を迫られるはずである。