魯迅と一九二〇~三〇年代日本文芸思潮―日中プロレタリア文学受容の比較研究―

陳 朝輝

1.本稿の目的
1920年代から30年代にかけて、中国のプロレタリア文学運動は日本のプロレタリア文学運動と密接に連動していた。中国における日本プロレタリア文学の受容ルートは、魯迅ルートと創造社・太陽社ルートと二つに大きく分けられよう。創造社・太陽社のメンバーは若かったためであろうか、その受容の様態は比較的ストレートであるが、これに対し魯迅(ルーシュン、ろじん、1881~1936)の受容過程は非常に複雑である。とくに、魯迅自身も認めているように、彼のプロレタリア文学への関心は、当時の文壇動向や社会状況による強い要請に基づく一面もあるので、その受容過程は想像以上に複雑であり、具体的な受容プロセスにおいても、魯迅の試行錯誤或いは抵抗する姿を至るところ観察できるのである。
それでは魯迅は日本プロレタリア文学運動の何を拒否し、また何を受け入れたのであろうか。本稿は主にこのような問題を考察する。日本近代文学史研究において、日本プロレタリア文学史の起点は、1921年創刊の『種蒔く人』に置かれることが多い。また1934年のラップ解散が一つの終結点と看做されることも多い。1923年に『現代日本小説集』を弟の周作人と共訳し、1936年に亡くなるまでゴーゴリの『死せる魂』を日本語版を参照しつつ翻訳し続けた魯迅は、この十数年間に渡る日本プロレタリア文学史の全過程と関わっていた。本稿は主に上記の問題を、このプロレタリア文学運動史に沿って研究したものである。

2.構成および基本的視座
本稿は7章から構成されている。第2章、3章、4章、5章、6章が論証の中心内容であり、この5章は主に日本プロレタリア文学運動の展開に従って配列されており、魯迅と1920~30年代日本文芸思潮との影響関係もこの展開に従って検討している。魯迅の読書体験ないし文芸思想の変遷過程から日本プロレタリア文学の思潮史を逆照射するいっぽう、日本プロレタリア文学思潮の変遷過程を土台にして、魯迅の日本プロレタリア文学の受容構造を明らかにすることにより、1920~30年代における魯迅文芸思想の変遷過程を辿るものである。

3.各章の梗概
第1章:総論の提出
魯迅が本格的に日本プロレタリア文学に関心を寄せ始めたのは、1920年代の中頃――特に中国で革命文学論争が起きて以後のことと思われる。この時期に魯迅が購読した日本プロレタリア文学関係の文献に、厨川白村、片上伸、青野季吉、蔵原惟人、上田進らの著作が多く見られる点が非常に興味深い。それはこれら5名の日本人文学者は日本プロレタリア文壇において、ある種の系譜関係を有する一方、魯迅も彼らの著作に言及するだけではなく、著作の翻訳も多数行っていたからだ。いったいこれらの日本人文学者たちの文芸論説から魯迅は何を読み取ったのか。とくに彼らが共有しまた反目しあった文学観は、晩年の魯迅文藝思想にどのような影響を与えたのだろうか。第1章は主に以上のような問題を提起する。

第2章:魯迅と厨川白村
第2章では魯迅が日本プロレタリア文壇に注目するきっかけとなった厨川白村(くりやがわはくそん1880~1923)の受容について考察する。魯迅が厨川白村に強い関心を持っていたことはすでに知られている。しかし当時高揚しつつあった労働問題に対し文学者はいかに対応すべきか、という白村が抱えていた苦悶は、これまであまり注目されてこなかった。当然ながら魯迅がその苦悶に気づき、その後次第にプロレタリア文学へと関心を寄せて行ったという事実も、見落とされてきたのである。この「象牙の塔」を出る「苦悶」は、白村にとってどういう意味を持つものか、また魯迅がそれに気づくことによって、文学に対する意識がどう変わったのか、さらにその後の魯迅文芸思想の変遷にどういう影響を与えたのか、本章は主にこのような問題を議論する。

第3章:魯迅と片上伸
白村が抱えていた「苦悶」に遭遇することによって、魯迅は本格的に「文学と労働問題」について考え始める。そしてこの時期に魯迅の前に現れたのは、ロシア文学者片上伸(かたがみのぶる、1884~1928)だった。ロシア留学中に「十月革命」を体験した片上は、その後次第に労働文学をこれから間違いなく勃興してくる新興文学と見なし、その将来性を強く信じるようになる。しかも具体的にこの新興文学――つまりプロレタリア文学の様式と内容がどうあるべきか、という問題について必死に探り始めるのである。片上がこれらの問題について発した議論に、魯迅が積極的な関心を示し、高く評価していたことは、魯迅の著作集から確認できる。第3章では主に魯迅が片上のいかなる論点に関心を寄せたのか、という問題を検討する。同時に中国における片上の受容史についても、先行研究を踏まえて再検討を行っていく。

第4章:魯迅と青野季吉
片上伸のプロレタリア文学論ともっとも密接に連動していたのは、片上の教え子でもあった青野季吉(あおのすえきち1890~1961)であろうと思われる。彼の一連のプロレタリア文学論は片上のそれとある種の系譜的関係にある、と筆者は考えている。とくに片上が1928年に死去した後、彼が生前に最重要課題としていたプロレタリア文学の様式論の問題は、青野がもっとも積極的に継承していたようだ。例えばこの時期に打ち出した「外在批評」の議論や「目的意識」論などは、片上のプロレタリア文芸論とも深く関係していたのである。このように青野が片上理論の流れを汲んでいたからこそ、魯迅は青野が自らの文学観とは肌が合わない「目的意識」論を提唱していたにも関わらず、青野の論文を翻訳し、その議論に注目したのではあるまいか、と筆者は考えている。本章では主に魯迅が青野文芸論のいかなる点に注目し、また何が故にそれに注目したのか、という問題について考察している。

第5章:魯迅と蔵原惟人
魯迅自身も述べているように、蔵原惟人(くらはらこれひと1902~1991)とは魯迅に多くのロシア文芸理論を仲介した人物である。しかし魯迅が蔵原本人の著作にはほとんど触れなかったので、今まで両者の関係は軽視される傾向にあった。しかし蔵原訳のファジェーエフの長編小説『壊滅』は魯迅にとって非常に重要な意味合いを持つ上、魯迅の蔵原理解から、当時の日中両国のプロレタリア文芸論の違いも明らかになるのである。筆者の見解としては、この『壊滅』こそ、魯迅およびこの時期の日本プロレタリア文学者たちが理想としていたプロレタリア文学の作品だった。第5章では主に前述各章の議論内容の流れを受けて、こうした問題を論じる。

第6章:魯迅と上田進
上田進(うえだすすむ1907~1947)という人物自体、すでに日本近代文学史から消えかかっており、魯迅との関係についても筆者を除いて議論する者はいなかった。しかし上田が翻訳したロシア文学理論は、魯迅にとっては非常に重要な意味をもっていた上、とりわけ彼が先頭に立って日本プロレタリア文壇に紹介した社会主義リアリズム理論は、日中両国のプロレタリア文学運動に大きな刺激を与えたのである。第6章では主に上田によるプロレタリア文学理論翻訳とゴーゴリ『死せる魂』翻訳の魯迅への影響関係を分析する。特に上田訳を参照ながら『死せる魂』を人生の最期まで訳し続けた魯迅の心情を探る。それは『壊滅』から『死せる魂』へと関心を移した魯迅の内心には大きな変化が生じていたからである。しかもこの変化こそ、魯迅晩年の文芸観を再検討する際のキーワードとなると筆者は考えている。

第7章:結論
文学を「苦悶の象徴」と見なす厨川から共産主義者として党旗を掛けられて永眠した上田まで、魯迅は十数年間に渡って日本文壇――主に日本プロレタリア文壇を注視し続けていた。魯迅は厨川に対する共感により労働文学に関心を抱き、日本プロレタリア文学受容の前史段階へと進み、片上に対する共感によりプロレタリア文学を新興文学と認め、さらにその実態を考え始めたのである。さらに青野に対する関心は、魯迅を文学と政治の挟間へ誘い、続いて蔵原のソヴェート・ロシア文学の翻訳は魯迅を真のマルクス主義文学理論の研究へと導いた。そして最後の上田に対する関心は、政治社会的な、或いはイデオロギー的な傾向文学の限界を、魯迅に実感させたのである。

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