日本の近代史は、一方では政党が、他方では官僚勢力が、いかに「地方」へと影響力を拡張させるかの競合の歴史であったともいえる。戦前期最大の農業者団体であった系統農会もまた、国と農業者をつなぐ有力な回路であり続けた。本論は、近代日本における中央―地方関係において、系統農会がおかれた位置を分析し、その存在の固有の意味について論じた。
本論で扱った戦前期日本は、労働人口の半数前後が第一次産業に就いていた。そして、第一次産業の中で大きな位置をしめる農業部門は、大多数が零細な家族経営として営まれていた。1920年代以降、人格承認要求と密接に結びつくところの国民の生活水準向上が国家的課題として浮上してくるのであるが、その際に、農政はいかなる対応を取りえたであろうか。
戦後日本は1960年代以降、国民総生産を拡大すると同時に、完全雇用の実現を目指すことにより、国民生活水準の向上を現実のものとした。その前提としては、人口の大部分が賃金労働者として都市に吸収されたため、世帯の所得を考慮することで、生活水準向上という課題を達成できたという事実がある。
しかし、戦前期日本においては、国民をマスとして捉え、マクロレベルで生活の問題に対処する60年代のような解決方法は取り得なかった。なぜならば、自営業主が過半を占めている産業分野においては、個別経営に存在する経営技術の優劣の問題や、生産技術を個別経営にいかに導入するかという問題を抜きにして生活水準の問題は対処できなかったからである。それでもなお、国家が「生活」の問題に対処しようとするとき、いかに困難であっても、個別経営に介入することを決意せざるを得なかった。そのためのツールを必要としたところに、系統農会の存在価値があったと考えられる。
系統農会がはじめて法制化されるのは1899年である。1880年代前半までに活動を始めていた「初期農会」や、1891年に第二議会に提出された農会法案が、郡を核とした農会組織となっており、郡どうしの横のつながりによる農事技術の伝播が期待されていたのに対して、成立した農会法及び直後に出された農会令には、トップダウンの原理が色濃く見られる強い系統性が確認される。また、農会が目的としたのは、直接経営農民の農家生産の安定そのものであり、かつての研究で指摘された「地主農政」論は必ずしもあてはまらないことについて論じた。農会法が成立したことは、農家へと働きかける農業部門独自のパイプが形成される端緒となったといえよう。
次に論じたのは、1922年に農会法改正(新農会法)が成立したことの意義についてである。ここでは、郡制廃止/郡役所廃止後の郡レベルでの農事奨励事業を郡農会に担わせる目的を含んで新農会法が制定されたことを明らかにしたが、それは単に郡レベルの奨励事業に関する問題に止まらなかった。なぜなら、郡廃止後も郡農会が存続したことは、帝国農会―道府県農会―郡市農会―町村農会の系列からなる技術員指導網が、内務行政とは独立したかたちで一元化して成立する契機となり、国家と農業経営者をつなぐパイプとしての方向性がより強調されたからである。それゆえ、そのパイプを強化し、技術指導網を作り上げるべく、系統農会技術員の拡充が急務とされた。技術員たちは「国家的事業の担い手」との自己認識を持って活動したのであるが、その国家的事業とは、個別の農家の経営・生活の改善にまで踏み込んで指導するという内容であった。この背景には個別の経営が改善され、農家の生活が安定することこそが、迂遠ではあっても、最終的に国家の安定につながるという農林省・系統農会系統の信念が存在したと思われる。
また、こうした信念の存在を前提として、1920年代に進行する小作立法の試みと農民的小商品生産との関連について論じた。小作立法が実現し小作の耕作権が確立することは、生活安定の前提条件に過ぎない。確定された耕作権を前提として、農家の経営改善が図られてはじめて、農民生活の安定が成し遂げられるのであり、小作立法と農家経営改善が相互補完的関係にあることを示した。
しかし、以上に述べたような中央の意図とは別の次元で、新農会法の制定は地方の政治状況に影響を与えることとなった。たとえば、富山県農会では、米投売防止運動や新農会法の制定を農会の政治的活性化の起点であると捉える農業技術者によって、農業者の政治的組織化が図られ、農政倶楽部の活動が活発化する様子が確認された。
また、新農会法下で、全農業者(地主から小作まで)を包括的かつ対等の立場で含む農会の組織原理(普通選挙原理)が確定されたことによって、農会を階級協調のツールとして利用しようとする動きが出たことを千葉県山武郡源村の事例から論じた。
しかし、そうした事例にもかかわらず、那須皓や岡田温といった帝国農会で農会運用プランを練る人物たちにとって、農会を階級問題解決のために用いることは、あくまでも農会の副次的利用方法にすぎなかった。彼らは階級問題解決とは別の次元で農家経営改善事業の有用性を指摘しており、階級問題について小作寄りの立場を示した那須と、階級協調路線を崩さなかった岡田の両者が、農家経営改善事業の実行という点で歩み寄る動きを析出し、彼らを「農家経営改善推進派」とラベリングした。
内務行政から独立した形で成立した系統農会技術員指導網は、再び内務行政の監督下におこうとする内務省、町村側からの掣肘を受けることとなる。そこで帝国農会側からも、なぜ系統農会が独立した指導網を持たねばならないのかを一層明確に示す必要があった。帝国農会幹事は、従来各府県農会連合で運営されてきた販売斡旋事業を帝国農会のもとに一元化するにあたり、販売斡旋事業と経営改善指導事業を組み合わせることによって、市況情報を生産指導に反映させていくというプランを練った。そこで主体となる郡農会には、両事業を結びつける役割を果たすことが期待された。
しかし、農家経営改善事業を第一義におくそうした帝国農会の立場は、富山県農会でみたような政治活動の拠点として農会を組織化することを強く志向するグループによって脅かされることとなる。グループの中心となったのが、兵庫県農会であり、同会を中心とする関西府県農会聯合であった。彼らは帝国農会に対して、農政運動の組織化を強く要求すると共に、彼らが組織した大日本農道会にみられるように、農民指導において「精神」指導を重視した。帝国農会と関西府県農会の力関係は、二・二六事件を期に著しく変化することになる。二・二六事件後に各政治勢力が議会へ向けて結集する政治的潮流の中で、帝国農会は関西府県農会の要求を受け入れ、全面的な政治活動に乗り出したのである。その結果、第六九議会後には、農政部の設置という機構改革に帰結する制度変革の中で、1920年代以降の農家経営改善事業、販売斡旋事業路線を引っ張ってきた岡田たち古参幹事は人事面からも一掃されることとなった。
機構改革ののちもなお、農政部と並ぶ経済部を帝国農会に設置することで、農家経営をターゲットとする農会の各種事業は変質しながらも存続したのだが、最終的にこの路線は戦時期に打ち切られることとなった。なぜなら、戦時を迎えるにあたって、帝国農会が「統制」団体化し、国家からの増産要求に応えることが系統農会及び会員である農業者の責務とされ、従来の農家経営改善路線が「私益」として排除されていったからである。また、1943年に実現する農業団体統合では、農業団体を町村行政の統括下におくこと、ひいては経済行政を内務行政の監督下におくことを強く主張する内務省の意向が反映されたものとなり、農林省のもと、独立した指導網として存立してきた系統農会技術員網が、機構上、再び内務行政のもとにおかれるようになった。
以上の内容をまとめる。
まずは1899年農会法から、1922年農会法に至るまでの時期については、系統農会が国家と農業者をつなぐパイプとして存立する基盤を築く時期となっていたことが指摘されよう。そして、1922年農会法改正を経て、系統農会は技術員網を張り巡らせ、内務行政とは独立した系統組織を確立することに成功した。それは農林省の指導網が整備されたことも示している。
系統農会の指導網が内務行政からの独立性を主張し得たのは、個別の農家の「経営」をダイレクトにつかまえているという点であった。こうした機能は内務行政あるいは政党では果たし得ず、政党政治期における系統農会の基盤の正当性を主張する根拠ともなった。
しかし、こうした「経営」を核とする系統化に対して、内部からの批判者が存在した。関西府県農会聯合である。彼らは、経営改善指導の実行を進めつつも、より緊急に農業者利益を実現しうるものとして、議会での農業関連法案の実現を求めるべく帝国農会に積極的な活動を求めた。彼らの要求に応じて、1936年に行われた帝国農会の改組は、農家経営改善が後景に退いたことを示した。
農家経営改善が最終的に終焉を迎えたのは、戦時期であった。1920年代には農家経営改善をすることこそが「公益」であり「国家的機関」のなすべきことと位置づけられてきたのに対して、農家の経営改善は「私経済」の改善に過ぎず、増産要求という「公益」の前には「私益」に過ぎないとされるようになったのが戦時期である。農家経営改善を行うために、巨大な技術員網を組織してきたのが1920年代以降の系統農会であった。その根底が覆された以上、系統農会が、系統的な技術員網を維持する前提も失われたとみてよいだろう。1943年に実現した農業団体統合の過程では、内務省系統の統制の下に、農業団体を組み込もうとする意図が如実に示されることとなるのである。
以上、40年間以上にわたる帝国農会、系統農会の歴史は、内務行政から経済行政の農業指導分野が分離独立し、そして再び内務行政へと回収されるに至る過程を示しているといえる。