本稿は、主として対中国関係を専門とし、軍人でありながら日中間の政治外交関係にも重要な影響を与えた軍人たち、いわゆる「支那通」について、これまでの研究では実のところ注目されてこなかった、中国大陸に渡って種々の活動に従事した日本軍人たちの具体的な活動の実態を、日清戦争後の明治中期から、太平洋戦争が終結する昭和戦前期にかけての期間につき、8章に時期区分の上、究明しようと試みた。
先行研究として重要な、北岡伸一氏や戸部良一氏の、いわゆる「支那通」に関する研究は、参謀本部支那課に勤務する高級参謀などの対中国認識に注目したもので、彼ら「支那通」が日本の対中政策全体へ与えた影響、あるいは陸軍全体の施策の中で「支那通」の果たした役割について明らかにしたものだった。しかし、本稿は、中国に渡った多様な軍人たち、すなわち、中国政府や地方政権の軍学校の教官や政府の軍事顧問としての任務を果たし、あるいは、公使館付武官や要地の駐在武官として情報収集を行い、あるいは、特務機関員として諜報活動に従事した軍人たちについて、彼らに下された訓令などの基本史料を読むことで明らかにしようとした。研究の結果、明らかになったことは、以下の諸点である。
1898~1902年(明治31~35年)の段階における日中(清)関係は、日本の軍事教官・顧問の渡清や清国武備留学生の来日により、軍事提携が緊密化していた時期であった。中国各地へ日本人軍事教官が招聘されるパターンは、まず兵書翻訳・武備学堂での教育・管理を皮切りとしたもので、最終的には、より権威のある軍事顧問になっていくというものであった。このような昇進の過程は、応聘將校制度を案出した日本の参謀本部が、彼らに対して抱いていた期待、すなわち、国益増進・勢力扶植への期待を裏切らないものであった。
究極的には、日本の国益増進に適合すべく勤務していた日本人軍事顧問・教官の任務ではあったが、結果的に彼らの働きによって、中国(清)の軍事的な近代化が達成された側面は否定できない。こうした例として、第一に挙げられるべきは、袁世凱の軍事顧問として働いた立花小一郎の例であろう。日本においては、1900年(明治33年)4月、陸軍省から教育総監部が独立したことによって、明治初年以来の、軍事教育が軍政機関の管轄下に置かれるという事態が解消されていた。立花はこの改正の2年後にあたる1902年(明治35年)6月、日本で確立したばかりの制度を、直ちに中国(清国)軍政司を創設することで中国にも導入させる上で大きな役割を果たしたといえる。この点から鑑みても、立花が北洋陸軍の軍制成立や軍政改革などに十分大きな影響力を持ったものと評価できる。
日露戦争前後の1903~1904年(明治36~40年)にあっては、日本人軍事顧問・教官の傭聘も前期に比べて、質的にも量的にも上回ることとなった。軍事教官に関しては、前段階の、兵書翻訳・軍事教育・軍隊教育・新人推薦などについて引き続き任務を遂行する一方、日露開戦後は、情報提供・武器取引などにも携わっていった。軍事顧問も、前段階の計画調査・機関整備・諮詢相談などに加え、1905年(明治38年)から翌年にわたって行われた対露野戦演習の実施を契機として、動員準備・演習指導などを行うようになった。以上の点からは、坂西利八郎を始めとする日本人軍事顧問団の活動により、教育・訓練・演習など広い範囲に亘って北洋陸軍の土台が築かれたことがわかる。
1908~1911年(明治41~44年)の日露戦後においては、日露戦後の満洲問題を巡って、日中(清)間に対立感情が芽生えるようになった。その端的な例として、一人の日本人軍事教官が日本側の秘密を中国側に伝えた疑惑から日本側に射殺されるに至った川喜多事件を挙げうる。当該事件は、その後の「清国応聘將校」制度が変更される一つの原因を形成したと思われる。すなわち、川喜多事件の約一年半後、陸軍中央は中国(清国)に招聘される軍事教官の選抜を、志願制から派遣制に変更しようとした。この改変の裏には下士官の再任をめぐる、通常の制度上の要請もあったと思われるが、日本の軍事教官から日露戦争の戦闘の実態が中国側に洩れたことへの陸軍の警戒感の増進はたしかなものであった。
日露戦後、ドイツは中国政府に対して積極的な外交攻勢をかけた。その影響もあり、日中(清)間における軍事教官招聘の気運は衰えていった。1910年(明治43)年8月、中国政府内での親独派とみられる廕昌が陸軍部尚書(陸軍大臣)に就任し、外国人軍事教官招聘に関する政策を転換した。すなわち、招聘対象を日本人軍事教官からドイツ人軍事教官に切替えたのである。このことを主因として、これまで湖北省への派遣を濫觴とし、北京政府の支配地域に多大の影響力をもった約14年間の日本人軍事顧問・教官の招聘制度はほぼ終止符を打つこととなる。
辛亥革命後の1912~1918年(大正元~8年)になると、かつて清国応聘將校であった軍人たちは新たな職務を引き続き中国に求めるようになり、いわゆる「支那通」、すなわち対中国関係を専門とする軍人としての履歴を歩み続けていった。その第一の例として、辛亥革命に際して、高山公通や嘉悦敏らが情報将校へ転身していった例が挙げられる。第二の例としては、坂西利八郎や青木宣純(応聘將校の経験はないが、長期に亘り公使館附武官として在勤)が、大総統府軍事研究員(または顧問)へ転身していった例がある。第三の例としては、寺西秀武や多賀宗之らが地方軍閥の軍事顧問へ新たに招聘されてゆく例が挙げられる。
しかしながら、彼らの招聘については、個々の日本人軍事教官・顧問と、北京政府時代の要路または地方軍閥との私的交誼・関係に基づくものであり、中国側の国家方針に沿うものでは必ずしもなかった。それゆえ、日本側が対華21か条要求第5号の中で、軍事顧問の招聘を要求した背景には、明治末年の川喜多事件、中国側の減俸要求、応聘制から派遣制への変更、廕昌による日本人教官の解雇、ドイツ人教官の招聘など、この間の日中関係の一連の悪化を背景に、低迷しつつあった軍事顧問・教官招聘制度を回復しようとする日本側の切なる希望があったと見られる。
さらに、東三省、いわゆる満洲においての初めての顧問招聘制度の実態は、清国時代の先例とは異なり、人件費等を負担するのは中国側ではなく、日本側が負担した上で契約を結ぶものであった。先にも触れたように、明治末期以来からの伝統をもつ清国応聘将校制度の低迷は、大正期に入っても改善されなかったといえるだろう。1925(大正14)年1月に開かれた第一回諜報武官会議は、陸軍から中国へ駐在武官が派遣されるという制度の歴史上の、一つの画期となった会議として意義ぶかい。明治末期から大正期にかけて、政治的謀略に資するための情報収集に専念していた駐在武官らは、第一回会議を契機として、中央省部の情報収集に関する方針を転換し、中国の目まぐるしい政軍関係と変動しやすい列国の情勢以外に、より「永続的」な中国の地理形勢や物産資源の調査研究を目的の一つとして掲げるようになった。また、「支那研究員」制度が新たに誕生したことは、「動的」情報の収集を担当する駐在武官以外に、「静的」情報収集の必要性の自覚がみられるようになってきたことの現われである。
「満洲国」が誕生すると、中国を専門とする軍人たちは、関東軍特務部軍人として、産業育成に関する内面指導に当る。しかし、内面指導の硬直性と南満州鉄道株式会社の重工業分野での能力の限界とによって、特務部と満鉄が協力して書き上げた「満洲経済建設大綱」は望ましい成果を挙げられなかった。特務部と満鉄のコンビは、満洲国建国初期においては限定的な役割を果たしたといえるが、日本の新たな国策遂行方針の決定により、特務部はこれまでの経済計画策定に対する役割を、陸軍中央、革新官僚、新興財閥などに譲らざるを得なくなった。
1935年にピークを迎える、天津軍や関東軍による華北五省分離工作は、日中戦争の主な原因となってゆく。関東軍の圧力が華北情勢を悪化させているとみた参謀本部は、天津軍に特務部門を統轄させることで関東軍の圧力の軽減を図ろうとした。北平特務機関長に、冀察政務委員會の軍事顧問を指揮・監督させることとし、特務機関と軍事顧問の統率一元化に乗り出した。その後、大使館附武官輔佐官も北平特務機関長、つまり天津軍司令官の直接指導下に組み込まれることとなった。
特務機関が何をなすべきかについては、中央の参謀本部と関東軍の見解の対立のみならず、陸軍部内でも議論が絶えなかった。本来の業務の一つは、作戦資料蒐集の責任を担うべき機関であった特務機関は、ややもすれば謀略工作に偏重しがちな行動をとりがちであった。これを矯正するために、日中戦争開始後、占領地域の拡大とともに、各地の治安維持の必要性に迫られた支那派遣軍は、特務機関と軍事顧問の指揮系統を再び分けることとし、前者を作戦資料の情報収集・宣伝工作に、後者を内面指導・謀略工作・「偽軍」の訓練に、それぞれ当たらせることとした。
日中戦争勃発後、日本は華北・蒙疆及び長江下流地域、いわゆる国防・経済上の強度結合地帯に対する実質的な占領統治を進め、宣戦布告なしの戦争であったために軍政施行ができない欠陥をカバーするため、傀儡政権の樹立を急いだ。日本は、汪兆銘の「新中央政府」に顧問配置を要求する一方、中国の軍隊及び警察隊の建設についても顧問招聘を要求した。これらの顧問派遣に関する要求については、華北に樹立された傀儡政権の臨時政府、華中に同じく樹立された維新政府の時点で、既に受け入れられ、後に汪兆銘政権が成立した後も引き続き踏襲されていった。