本論文は、インド仏教伝統内部における『八千頌般若経』(ASTasAhasrikAPrajJApAramitA,以下『八千頌』)の解釈方法の実態を、最も影響力をもっていたと考えられる註釈書、『現観荘厳論光明』(AbhisamayAlaMkArAloka,以下『光明』)(ハリバドラ著、800年頃)の読解を通して、明らかにしようとするものである。
この書『光明』は、『現観荘厳論』(AbhisamayAlaMkAra)(『二万五千頌般若経』(PaJcaviMzatisAhasrikAPrajJApAramitA,以下『二万五千頌』)の内容を修行実践の観点から273偈にまとめた綱要書)と『八千頌』を対応させつつ両者の理解を記しているため、『八千頌』の註釈書として捉えることも『現観荘厳論』の註釈書として捉えることも可能である。しかし、従来の『光明』に関する研究は、この書の『現観荘厳論』の註釈書としての側面に焦点を当てたものがほとんどであった。それに対して本論文は、この書の『八千頌』註釈書としての側面に焦点を当てた初めての本格的な研究になる。
「研究編」「序論」では『光明』に関する諸情報を整理した。その第1節では、『光明』、『現観荘厳論釈』(AbhisamayAlaMkArazAstravRtti,以下『論釈』)の跋文に記された情報、チベットの史書、著書に説かれる思想内容、『光明』で言及される律についての記述から、『光明』の著者ハリバドラの人物像を可能な限り明らかにした。
第2節では、『光明』の二つの註釈対象である『八千頌』と『現観荘厳論』について、その概要を示し、書誌情報を整理し、両書に関する註釈書成立史についてまとめた。その上で、土着文法学の駆使、語釈を離れた教義論争の展開、四身説の主張などといった、『光明』の解釈技法的特徴、内容的特徴を紹介した。さらに、『光明』が先行論師・論書から受けた影響、後代の論師・論書に与えた影響について論じた。
第3節では、『光明』に関する先行研究を整理し、その問題点、つまり『光明』研究に『八千頌』註釈書として捉える観点が欠けていることを挙げた上で、本論文の構成を紹介している。さらに、本論文執筆に当たり、『八千頌』第二章「シャクラ章」註釈部分を主たる考察範囲に選択した理由について論じた。理由の一つは、この第二章が『八千頌』における中心教説の一つである無執着の実践について論じた箇所であることである。また、『光明』の内容把握のためには、この書に先行する『二万五千頌』の註釈書『現観荘厳釈』(アーリヤヴィムクティセーナ著)との内容比較が不可欠であり、そのためには『二万五千頌』と『八千頌』の内容相違が比較的小さいこの章を主たる範囲とするのが適切である。これが二つ目の理由である。
「研究編」「本論」では、ハリバドラが『八千頌』第二章註釈部分で示した特異な解釈内容、及び『八千頌』全体にわたる彼の基本的解釈態度について論じた。
第1節では、『八千頌』第二章と『現観荘厳論』の対応部分の科門を作成し、それに従い、それぞれの内容を簡単に紹介した。前者は無執着の実践を説き、後者は、声聞・独覚・菩薩の実践道を説くという基本内容を述べた上で、それぞれの詳細な内容を紹介している。さらに、この両者を註釈した『光明』の註釈内容の中から特異なものを三つ取り上げて、その概要を紹介した。一つ目は、独覚の解釈についてである。ハリバドラは『八千頌』中の「不退転の菩薩摩訶薩」を「独覚」と註釈している。自利をなすから「菩薩」であり、利他をなすから「摩訶薩」であるというのが、この両語に対する『光明』の基本的な定義である。ハリバドラは「独覚」を言葉によらず身体による説法をなすものと見なしており、この点で独覚は利他をなすことになる。その結果「独覚」と「菩薩摩訶薩」の同一視は『光明』の中では矛盾しない考え方になることを指摘した。二つ目は、推論式を用いた仏陀常住の論証についてである。この論証内容はこれまで他文献に確認されていないものであるが、立論を構成する要素のうちには、『宝性論』が如来常住を主張する時に用いたものと重なるものがあることを示した。三つ目は如来の十号の解釈についてである。ハリバドラは如来十号について伝統説を採用する一方、通常とは異なる説明を加えている。彼は、十号を別々のものとして見るのではなく、それらを仏の論師性の具備に関する種種の要素を示す語として捉え、一つの体系を形成するものとして論じていたのである。
第2節では、註釈の際に底本にした『八千頌』に対するハリバドラの態度を検討した。註釈対象である『八千頌』に関して、ハリバドラは無断で語句を加えて『八千頌』を改変することはなかった。ハリバドラは底本以外の写本も参照しており、底本の読みと異読の読みを峻別した上で、しばしば読みの優劣の評価を下していた。その評価のポイントは先行する論者の説と矛盾しないか、文脈上適切かどうかといった点であった。このようなハリバドラの『八千頌』に対する態度は、現代研究者がテキスト校訂をする際の態度と部分的に重なり合う。ただし、こうした態度は註釈対象の『八千頌』『現観荘厳論』に限られている。その他の経論を引用する際には、引用元を明記しないことや、そもそも引用であることを示さないことがほとんどであった。取り分け自分が支持する説である場合、それを先行論者の説いたものとして区別する意識は彼には乏しかった。
第3節では、『現観荘厳論』と『八千頌』の間に見られる記述の相違や矛盾を解決する方法について論じた。ハリバドラは、その解決のために、『現観荘厳論』に改変を加えることや、『八千頌』の経文自体を改変することはなく、『八千頌』の経文に『現観荘厳論』の意味を付与する説明を加えること、つまり『現観荘厳論』によって『八千頌』の意味を規定していくという方法をとった。ただし、ハリバドラの姿勢は、従来主張されていたような両書の同一性を確立しようとするものと言うよりも、むしろすでに自明なことであり確立していた両者の同一性を背景に両書を結び付けて説明するというものであった。このように、『現観荘厳論』と『八千頌』、そしてその背景にある『二万五千頌』と『八千頌』の同一性を前提にすることを基本的な態度として『八千頌』の註釈を行っていた。ただし、『八千頌』を離れて『現観荘厳論』のみを解釈する時、つまり『論釈』を著す際には、以上の同一性は必ずしもハリバドラの関心事にはなっていなかった。こうした『光明』『論釈』両書執筆時における彼の経典観の相違が、両書の内容の差異につながっている可能性を指摘した。
第4節では、一貫性を欠いた『八千頌』の記述内容に対して、ハリバドラが二諦説と密意説を用いてその解決を図っていたことを論じた。そして、彼が密意説を用いて解決を図った唯一の箇所である、『八千頌』第二章冒頭部分の天子の発心を巡る矛盾する経文に焦点を当てて、他の註釈書との解釈内容の相違を調べた。その結果、『大智度論』では『光明』同様、教説の階層差を設けることによって、この箇所の解決が図られていたことが分かった。しかし一方、後代の『八千頌』註釈書『最上心髄』(ラトナーカラシャーンティ著)では、経文中で用いられている代名詞の指示対象が異なると理解することによって問題の解決が図られていた。このように、この箇所に関する解釈は一様ではなく、般若経解釈史の中でも問題含みの経文であった。さらに、所依の経文の違いに注意して註釈書の解釈内容を分析した結果、経文の変化や一部の註釈書のみを見たとき予測される状況と、実際変化した経文を相手にした解釈者の理解が合致しない可能性があることが分かった。そこで、今後、経典だけでなく註釈書も含めて、経文の変化の背景、変化後の理解の変化について辿っていく必要性を主張した。
以上の研究編に加えて、テキスト編、訳註編を付した。テキスト編では、未使用の『八千頌』『光明』貝葉写本を参照して、荻原雲来校訂本に対する幾つかの修正案を示した。これは、将来本格的になされるテキスト校訂作業に向けての第一歩となると考えている。また、訳註編では、未出版のアーリヤヴィムクティセーナ著『現観荘厳註』のサンスクリット貝葉写本を参照しつつ、ハリバドラがヴィムクティセーナの主張を踏襲していた箇所を逐一示した。その他、可能な限り、ハリバドラが依拠したと推定される他の文献の情報を示し、『光明』の著述の多くが先行論書に負っていることを示した。
以上の研究によって、ハリバドラの『八千頌』解釈方法の基本的な特徴は明らかになったと考えている。