本論文は、清朝とチベットとの関係が大きく変動した雍正年間(1723-1735年)を中心に、清朝の対チベット政策決定過程を取り扱う。1720年のチベット遠征以後の清朝の対チベット政策の展開について、従来の研究では、直接統治、間接的な藩部統治、チベット仏教を統治理念とした多民族国家への統合、等の理念的なモデル設定が先行し、当時の状況に応じた清朝の具体的な政策とそれに対するチベット側の対応という政治過程の分析は十分に行われていない。そこで、本論文では、1720年以後、「駐藏大臣」の設置やカンチュンネー暗殺への対応等、大きく変動しつつ展開していった清朝の対チベット政策に対し、そのつどの政策の立案と決定、実行過程を解明するとともに、そこに一貫する方針と政策の歴史的意味について考察する。史料としては、清朝の政策決定過程を知る上で不可欠でありながら従来十分に使用されてこなかった漢文・満洲文の奏摺を主に使用する。チベット語史料については、チベット内部の政治過程を知るために補完的に用いる。
第一章では、1723年の清朝軍撤退から1727年の「駐藏大臣」派遣までの政治過程を検討した。1720年以後三年間の清朝軍の駐留を経て、清朝はチベット駐留軍の撤退を決定したが、その理由として清朝が挙げたのは、ジュンガル排除の成功やダライラマ七世即位によるチベット情勢の安定、及び清朝軍駐留の長期化によるチベット側の負担増、等であった。軍の撤退後、清朝はジュンガルに対抗して「ダライラマ七世護持」を巡るチベット政府の要請を取り付け、チベット介入の名分を確保するために、チベット政府内で最も反ジュンガル的な勢力と協力関係を結び、彼らを通じて、元ジュンガル支持派であった勢力を牽制しようとした。ところが、清朝協力勢力はチベット政府内で安定的な地位を構築することができず、更にダライラマ七世との軋轢を生む結果となった。そこで清朝はチベット内部の正確な情報を収集し、チベットの諸勢力間の調停を図ることが必要と判断し、「駐蔵大臣」の派遣を通じ、チベットの政治的安定化を試みた。
第二章では、1727年の「駐藏大臣」ラサ到着直前に発生した親清派首相カンチュンネー暗殺事件とそれに対する清朝の対応について分析した。「駐藏大臣」のラサ入り前に、ラサ政府では反対派が親清派の首相を暗殺し、その支持勢力に対する全面的な粛清を始めた。暗殺首謀勢力はダライラマ七世を確保しながら、暗殺された首相がダライラマ財政を流用し、ジュンガルと秘密書信を往復させていた証拠を挙げ、暗殺の正当性を主張し、清朝に承認を求めた。これに対し、清朝は暗殺首謀勢力とジュンガルとの結託を疑い、軍事介入を通じた制圧を検討するが、ダライラマ七世を確保している暗殺首謀勢力への軍事行動はダライラマ七世のジュンガル行きを招きかねないと判断し、不介入を決定した。一方、粛清を免れた親首相派のポラネーは支持勢力を集め、暗殺首謀勢力に対する軍事攻勢に着手すると同時に、清朝に対し援助要請の書翰を送り、対ジュンガル敵対政策への支持と、暗殺事件への関与の疑われるダライラマ七世への不支持とを求めていた。既に不介入を決定していた清朝はそれに応じなかったが、暫くしてポラネーの抵抗が一定の支持を集め、暗殺首謀勢力と均衡状態となると、雍正帝はポラネーの軍事力でダライラマ七世のジュンガル行きを阻止し得ると判断した。更にジュンガル内部の権力交替情報を入手すると、雍正帝は、政治的に不安定なジュンガルがチベット問題に介入する余裕はないと判断し、不介入から介入へと政策を大きく転換した。その介入の筋道とは、ポラネーの援助要請を再活用し、「ダライラマ七世護持と停戦調停」という名分のもと、ダライラマ七世保護に不適切な親ジュンガル派として暗殺首謀勢力を処罰する一方、ダライラマ七世を移住させて清朝の護衛下に置き、ジュンガル侵攻に着手するというものであった。つまり、ここで、清朝はダライラマ七世を確保することによって、「ゲルク派護持(ダライラマ七世護持)」を巡るジュンガルの脅威を完全に取り除こうとしたのである。
第三章では、1727年12月の介入決定以後、1728年8月清軍がラサ入りするまでの過程を分析した。清朝が「ダライラマ七世護持と停戦調停」の枠内で軍事行動を成功させるためには、まず暗殺首謀勢力とダライラマ七世を切り離すことが必要であり、同時に、暗殺事件へのダライラマ七世の関与を大いに疑っているポラネーがダライラマ七世に敵対的な行為を行うことも防がなければならなかった。そこで、清朝は表面的にはポラネー支持を隠し、ダライラマ七世護持を掲げる一方、秘密裏にポラネーに支持を伝える工作を行った。その中、ポラネーが軍事的優位に立ち、ラサ陥落が近づくと、暗殺首謀勢力は「駐藏大臣」を通じ「ダライラマ七世護衛」要請を清朝に送り、「駐藏大臣」はダライラマ七世の護衛のためポタラ宮殿に入った。一方、ラサ入り後、ポラネーに対して「駐藏大臣」の随行員とラサ三大寺院代表らが、ダライラマ七世の暗殺事件への不関与を強く主張したため、ポラネーは暗殺首謀勢力のみを逮捕するに止まった。この状況で清朝軍は8月1日に、「ダライラマ護持と停戦調停(チベット安定)」という名分を掲げ、ラサ入りした。
第四章では、1729年から1733年に至る対ジュンガル軍事侵攻期間中における清朝のダライラマ七世政策を検討した。清朝はポラネーに冊封を与えチベット統治を委ねる一方、ポラネー政権からダライラマ七世を引き離して移住させようとした。そのため、ラサ入りした清朝軍司令官は「ダライラマ七世と雍正帝の会談」のための臨時的な移住をダライラマ七世側に持ちかけて同意を得、ポラネーの反対を押し切った。ダライラマ七世の移住に際し、清朝は「ゲルク派振興」を掲げ、清朝とチベットとの境界線附近にダライラマ七世のための新たな寺院を建立し、財政的支援を行い、周辺地域のチベット人の支持を取り付けた。ダライラマ七世を確保した後、清朝は「ゲルク派護持」の大義名分を掲げ、ゲルク派の破壊者たるジュンガルの懲罰のための征伐を始めた。1733年、清朝とジュンガルとの間で講和交渉が始まると、清朝はジュンガルの脅威の消滅、パンチェンラマの高齢化とダライラマ七世のラサ帰還要望という理由を挙げ、「ゲルク派振興」のためのダライラマ七世のラサ帰還を進めた。「ダライラマ七世と雍正帝の会談」の代わりに果親王がダライラマ七世の移住先を訪問し、「ゲルク派護持」の姿勢を示した。
第五章では、ダライラマ七世移住期間中の清朝の対チベット政策について検討した。ダライラマ七世の移住が完了し、ラサではポラネー政権が発足し、清朝のジュンガル軍事侵攻が本格化していくという状況のもとで、清朝はチベット駐留清朝軍の撤退について協議した。雍正帝は原則上は撤退すべきであるとしながらも、ジュンガル支配層のチベット亡命阻止とチベットの治安維持(反ポラネー勢力の抵抗)という新たな課題に対応して、駐留延長を決定した。そして2000名の清朝軍の監督は「駐藏大臣」に委任したが、その任務とはポラネーが率いるチベット軍と共にジュンガルとの境界地域への巡察を行うことであった。約4年間の駐留後、清朝とジュンガルとの講和交渉の開始と共に、清朝はチベット駐留清朝軍の削減の協議を始め、チベット側のポラネーとの協議を経て、ラサ防衛のための500名駐留と駐屯施設の建設、及び軍事作戦の内容を決定した。
第六章では、乾隆帝即位直後、チベット駐留清朝軍の撤退と「駐藏大臣」撤退の方針を打ち出したが、チベット側の駐留延長要請等を理由に延長へと方針転換していたことを明らかにした。
以上の分析により、直接支配や藩部統治などのモデルを設定してその実現過程として雍正年間の対チベット政策を捉えようとする従来の方法は、当時の対チベット政策の実態を説明するのに適切ではないことが確認できた。雍正年間の清朝の対チベット政策の課題は、ジュンガルとダライラマ七世との結合を如何に阻止するかにあり、チベットの領有自体は目的ではなかった。清朝はジュンガルに対抗して「ゲルク派振興(ダライラマ七世護持)とチベット安定」のためという介入の正当性を確保しなければならず、そのためにチベット諸勢力の動向に細心の注意を払いつつ、時にはチベットへの介入を自ら抑制する形で、試行錯誤的な政策を展開していったのである。清朝軍の駐留と「駐藏大臣」の駐在もこの目的に応じた臨時的なものと見なされていた。
チベットの諸勢力も「ゲルク派振興とチベットの安定」を基準として清朝支持かジュンガル支持かの政治姿勢を選択していたが、それ以外にもチベットの政治変動を規定した要因として、地域対立やパンチェンラマとの関係も重視すべきである。雍正年間の清朝の対チベット政策は、清朝とチベット双方の目的がからみあうなかで、複雑な展開を示していたのである。