ヴァルター・ベンヤミンにおける芸術形式の理論 -芸術作品はなぜ現存する必然性をもつのか-

岡本 和子

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の批評作品の大半は、芸術作品をその対象としている。なぜなら彼にとって、芸術作品は現存する必然性をもつものであり、この必然性を証明することが批評の課題であるからだ。本論文の目的は、ベンヤミンがどのようにして芸術作品が現存する必然性を根拠づけているのかを明らかにすることである。本論文は二部構成をとっており、総論にあたる<第一部>では、ベンヤミンにおける芸術作品をめぐる概念体系が明らかにされ、各論にあたる<第二部>では、<あらゆる芸術形式は芸術作品が現存する必然性を証し立てている>という命題のもとに、ベンヤミンが論じている芸術形式のうち、三つの芸術形式—物語、バロック悲劇、ロマーン(長編小説)—が個別に検討される。なお、本論文において問題とする芸術は、文学である。

<第一部>言語・芸術作品・批評
<言語としての芸術作品>という見方が、ベンヤミンの批評の根本的な指針となっている。ベンヤミンが芸術作品を言語として捉えていた、ということは、彼においては言語と芸術作品が同一の構造をもつ、ということによって立証される。
ベンヤミンによれば、言語には「伝達可能なものの伝達」と「伝達不可能なものの象徴」という二つの機能があり、この二つの機能が一体化した「表現における伝達」は、言語の原型を呈示している。しかし、二つの機能が完全に一体化しているのは堕罪以前の「楽園言語」においてのみであって、堕罪における善悪の認識を契機に、この二つの機能は分裂した。その結果、伝達には世俗的な意味伝達としての役割が、象徴(表現)には神的なものとの結びつきのしるしとしての役割が割り当てられた。歴史内の言語においては、世俗的な伝達という側面だけが知覚可能となっていて、神的なものとの結びつきである象徴(表現)としての側面は隠れている。しかしベンヤミンは、堕罪後の歴史空間においても、言語こそが人間が神的な世界へとつながる媒質であると考え、この意味で、芸術作品を言語として捉える。
また、ベンヤミンにおける芸術作品の概念には、批評が不可欠のものとして含まれている。このことは、彼がロマン主義の芸術理論から引き出した、作品の自己認識としての「批評」、すなわち「反省」の構造が、彼の考える言語の原型の構造と一致する、ということによって裏づけられる。堕罪後の不完全な言語としての芸術作品は、自己反省(批評)によって高まり、言語の原型のもつ完全さを目指す。
言語のもつ伝達と表現(象徴)という二つの機能は、芸術作品における「象徴形姿」(象徴するもの)と「象徴内実」(象徴されるもの)に対応している。しかし、歴史内存在としての芸術作品においては、象徴形姿だけが知覚可能となっている。そこで、「現われ」としては分裂している象徴形姿と象徴内実の、その隠れた結びつき、すなわち作品のもつ「象徴関係」を明らかにすることが、批評の課題となる。それはつまり、象徴形姿を、直接的には知覚不可能な象徴内実へと変換することである。しかし、象徴内実そのものを言語的に定式化することは不可能であるため、ベンヤミンの批評は、具体的には、象徴形姿を構成する作家の「叙述」の分析を通して、その作品に打ち出されている「芸術形式」—象徴形姿と象徴内実の関係—を根拠づけることを目指すものとなる。つまり、ベンヤミンが芸術作品を言語として捉えて批評を展開する際に最も鮮やかに浮かび上がるのは、作品のもつ「形式」としての側面である。なお、象徴形姿と象徴内実は、作品の事象内実と真理内実に相当する。またギリシア悲劇は、顕わな象徴関係を作品のなかに有しているという点で、ベンヤミンの批評にとって、一種のモデルとなっている。

<第二部>芸術作品の形式
ベンヤミンは、芸術形式の機能を、作品の事象内実を真理内実へと変換すること、と定義している。しかし、どの芸術形式も同じやり方でその変換をなすわけではない。その違いを示すのが、各々の芸術形式に固有の「表現形式」である。
ある芸術形式が、言語の原型が呈示するような完全な伝達として捉えられるならば、その芸術形式は伝達形式をもっている、と言える。その例が、物語という芸術形式である。物語は、繰り返し語り継がれることを通じてみずからのうちに時間を含み、それによって、楽園言語が同時的なものとしてもっている伝達と表現の一体性を、時間的一体性として獲得する。しかし、ある芸術形式が完全な伝達と見なされるのはまれで、世俗的な意味伝達としての側面のみを顕わにしている芸術作品においては、批評が、伝達と結びついているはずの表現形式の存在を明らかにしなければならない。ベンヤミンは、バロック悲劇における均質な反復の叙述から、救済へ向かう反復を担うアレゴリーという表現形式を取り出し、ゲーテのロマーンの叙述を規定している「死の象徴表現」に隠されてある「生の象徴」という表現形式を明るみに出す。これらの表現形式は、芸術作品に救済への希望が宿っていることを証し立てている。
ベンヤミンの批評は、作品を、真なる世界との象徴関係に解き放つことによって象徴形姿となし、作品の即自的完結性を破壊する。これによって作品は、救済への希望という「秘儀(秘密の知)」が住まう家として完成する。しかしさらに、批評が<芸術作品とは言語にほかならない>ということを証明することによって、作品は真理の住む家ともなる。なぜなら、真理は言語にこそ住まう、とベンヤミンは考えているからだ。つまり救済への希望とは、神話的二義性からの解放への希望、真理の要請なのだ。ベンヤミンの批評は、知の住まう家を建て、そしてその家こそが真理の住まう家でもありうることを指し示す。この二つの家が重なるところ、それが現存する必然性をもった「真の芸術作品」である。

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