白玉蟾における内丹と雷法 -中国的神秘主義と呪術の理論

鈴木 健郎

本論は、南宋期の著名な道士である白玉蟾の内丹思想の考察を中心とし、それが雷法と呼ばれる道法といかなる形で統合されているかを通して、その世界観や教説の特徴を明らかにしようとするものである。内丹と雷法は、ともに中国道教の理論と実践における重要分野であり、中国道教における“神秘主義”と“呪術”の代表的事例として扱われることが多い。しかし現在では他の諸概念と同様、“神秘主義”や“呪術”という分析概念自体が歴史形成物であり無色透明なものではありえないことが明らかである。
外丹を“呪術”或いはprotoscienceとする見方は、進化論的な呪術・科学論の影響を強く受けている。これに対をなして「内丹」の精神性や宗教性を強調することは、心をも実体的な気ととらえるような一元論的思考形態の理解を不正確にし、主観-客観、物-心などの二元論的図式、「宗教的真理」を内面・心の領域への囲い込みによって確保する図式に引き付けられることになる。意志的に鬼神や自然現象を操作する雷法も、典型的な“呪術”と見なされる。“呪術”が「偽」「誤り」とみなされるのは、主観による客観的世界への影響、時間空間的に懸隔したものの相互感応などの原理が、一般に近代科学的な原理と相容れないものとされるからである。このように“神秘主義”“呪術”という概念枠の構成には、近代科学の知識と方法を基準とした「主観・客観」「真・偽」などの観点が大きく影響している。
白玉蟾の教説の特色は、(1)道教における「気」の理論や身体技法の伝統を踏まえた内丹説と(2)実体性を徹底して批判する禅的唯心論と(3)天界と交渉し、鬼神を使役し、自然の運行を操作する雷法を、体系的に統合したことに求められる。『霊寶畢法』『鐘呂傳道集』『西山群仙会真記』などに見られる鐘呂派の内丹説、張伯端『悟真篇』の内丹説、白玉蟾の内丹説を通観してみると、(1)と(2)の関係についてそれぞれ異なった規定を行っている。鐘呂派では、内丹が陰と陽の両方を修めるのに対し、仏教は陰のみを修め陽を修めないと規定し、(2)は(1)の不完全な一部にすぎないと批判している。つまり陰+陽→純陽という図式の「陰」の部分に禅を位置づける。これは逆に仏教側からは「気」や身体という虚妄の実体性への執着から脱しきれない態度、(2)の論理を理解しないものとして批判される。この対立は完全に払拭されることは無かったが、張伯端、白玉蟾の体系では、それぞれの方法でその解決が志向されている。その結果、「内丹」という同じ語で呼ばれるものの内実および具体的な修行実践の方法において差異が生じている。
鐘呂派の内丹では、陰陽と五行の気の理論により体系化された伝統的な身体の図式を用い、具体的イメージを伴った存思的技法によって、自己を構成する気の操作と変容が行われる。天地と人との関係には、「道」から同じ「一気」を稟受して生成した存在として形態的、動態的な同型性があるとされ、体内の気の運用に際しては、天地の陰陽五行の気の運行法則に厳密に対応一致することが必要とされる。
張伯端の『悟真篇』は、虚無=道→一気=一→陰陽=二→万物という生成論を設定した上で、一気=一を金丹、虚無=道を本源真覚の性とし、万物から一までの生成論の逆行の過程を内丹に、一から道へ復帰する過程を禅の修行に配当する。(1)と(2)は区別されつつ連続性を保持する。(1)→(2)という構図は(2)の価値的優越を示すが、ここで陰+陽→金丹→真如という図式において、金丹→真如の過程に禅の修行を配すると同時に、「陰」の部分に禅の修行を配当する鐘呂派的図式を併用することで、「陽」と「金丹」の不可欠な重要性を保証し、輪廻を脱するには禅の修行と内丹修行の両者が必要であるとする。(2)の論理の貫徹を不徹底にすることで(1)と(2)の相互補関係が構築される。
白玉蟾は、(1)(2)を存在論的に同一とする新たな「内丹」解釈を打ち出すことで(2)の論理をかなり正確に認識した上で、整合的な体系を構築した。(陰+陽→金丹)=心、という図式が採用され、具体的な「気」のレベルは同時に本体的な心であるとされる。白玉蟾の体系ではさらに、(2)とは(1)以上に緊張をはらむ(3)も統合されることになる。
分析モデルとして、Ⅰ;実体的な万物のレベル、Ⅱ;陰陽や五行の気のレベル、Ⅲ;一なる本体のレベル、Ⅳ;徹底的な実体性批判、という4つの存在論的かつ認識論的な指標を設定すると、白玉蟾における内丹と雷法の関係は、内丹によってⅠ→Ⅱ→Ⅲ(→Ⅳ)を実現し、雷法はⅢを基盤としてⅡやⅠを操作する形を取る。Ⅰ→(Ⅲ~Ⅳ)と同時、同等に、Ⅲ→Ⅰの(気の)造化作用が強調されるところに特徴がある。「忘」や「化」の概念によってあらわされる気の錬成変化は、ⅠからⅢやⅣに向かうプロセスとして述べられるが、実はそれは、常に存在している根源から万物が生成する造化のはたらきをより全面的に認識、発現してゆく過程にほかならない。その意味で上方に向かうベクトルは実は下方に向かうベクトルと別のものではなく同一なのであるということになり、“超越”志向と外界操作の“呪術”的欲望とは矛盾せずに成り立つことが可能となる。下位末端の原理に基づいた形態的動態的対応=火候などは、本来的には無とされ、根源に腰を据えれば「自然に」実現される。究極的には無でありながら、気のレベルでは有、絶対的本体の自然な展開法則としてある種の客観性や聖性を担保されており、禅のように全面否定されることがないのが特徴である。実質的には一つである往復のダイナミズム全体を<集散自在>の境地として高く評価する。このような唯心論的かつ気一元論的構図においては、心と分離された客観的物質も、時間空間的分離も究極的には存在しない。鬼神は勿論、自然現象のすべては心や気によって時間空間的制限無しに感応する。ここでは、主客、真偽などの区分が近代科学とは共有されていないのであり、独自の理論的整合が存在しているということができる。

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