「超人」から「永劫回帰」へ -ニーチェ『ツァラトゥストラ』をめぐる一考察-

山村 浩

『ツァラトゥストラ』には、「自己」-「自我」という、人間の構造モデルが提示されている。「自己」は身体の領域に符合し、フロイトのエスを想起させる。他方「自我」は、社会的な関係の結節点に生起する。「自己」は人間存在の全体性にあたるが、「自我」は「自己」の「道具」に過ぎない。「自己」という概念にはまた、「自分の本来性」という意味合いもこめられている。「自我」は「自己」の「道具」として、「自己」を外界へと媒介するが、同時に「価値」によって構造化されている。「自我」を構造化している「価値」の源泉には、社会的な諸価値と「自己」の固有性の二つがある。「自己」がおのれの固有性を「自我」に反映させてゆくプロセスが、「自己超克」という概念の中核にあるものである。他方「自我」は、「自己」の本来性を疎外する方向でも作用する。「自己超克」という概念には、このような疎外を克服するという意味合いもこめられている。
「自我」を構造化するもう一つの源泉は「自」と「他」の関係力学である。これはハインツ・コフートのいうところの、「自己対象」との関係に相当する。「自己対象」とは、おのれの心の一部であるような対象で、それとの関係は自己愛的な関係である。『ツァラトゥストラ』では主人公ツァラトゥストラの弟子たちが、この「自己対象」に相当する。弟子たちは、真の意味での他者とは言えず、弟子たちとの関係は、ツァラトゥストラの「自我」を存立させるものである。ここではこの関係は、端的に「語る-聞かれる」という位相に現れている。「語る-聞かれる」という関係は、「伝達」の位相に見られる「語る-聞く」という相称的な関係とは別のものである。そこでは聞き手が、語り手を鏡のように映し出し、語り手の「自我」を補強する。「語る」という行為に見られるこの二層構造は、『ツァラトゥストラ』の叙事的な構造と密接な関係にあり、永劫回帰の体験へと至るツァラトゥストラの「発展」を規定している。
「序説」でツァラトゥストラは、民衆の無理解に直面し、思想家として他者との関係性を喪失し、「自我存立」の危機にさらされる。そのような危機において、かろうじてツァラトゥストラの「自我」をつなぎとめたのは、弟子たちという「自己対象」との関係であった。そこでは「語る-聞く」という相称的な関係のかわりに、「語る-聞かれる」という非相称的な関係が前面に出ている。このことはツァラトゥストラの言説の独特な性質の中に反映されている。このようにツァラトゥストラは、弟子たちという「自己対象」と関係を取り結ぶことで、「自我存立」の危機に対応するのだが、第二部の最終章「最も静かな時刻」において、内心の声によって、民衆に永劫回帰の思想を語ることを要請されたツァラトゥストラは、再び「自我存立」の危機を予感する。ツァラトゥストラはこのような自分の脆弱さを乗り超えるために、弟子たちと別離する。「語る」という行為には、「伝達」(「語る-聞く」という関係)と、「自我存立」(「語る-聞かれる」という関係)の二つの契機が含まれており、民衆に「伝達」するためには、「自我存立」の契機(弟子たちとの「語る-聞かれる」という関係)が克服されねばならないのである。しかし「伝達」も、「自我」の領域に根差しているという点では、「自我存立」と同様である。したがって、「語る-聞かれる」という関係が克服され、「語る-聞く」という関係が前面に出て来たとしても、今度は「伝達」の虚偽性が問題にならざるを得ない。だがそうした事情も、永劫回帰思想の体験によって再び一変する。伝達の虚構性を了解し、その仮象性をむしろポジティヴに称揚するならば、逆説的にも「伝達」の可能性に対する盲信が取り除かれ、「自我」の虚構性が肩透かしされるからである。「語る」という行為をめぐる、主人公ツァラトゥストラの発展とは、こうした「自我」の虚構性を克服しつつ、「自己」の本来性に近づこうとするプロセスにほかならないのであり、その意味でそれは、この作の「自我-自己」という人間の構造モデル、自己超克のプロセスと照応している。

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