朝鮮漢字音研究

伊藤 智ゆき

朝鮮漢字音とは,朝鮮語によって中国語を写した借用音の体系であり,日本漢字音・ベトナム漢字音などと並んで,中国語音韻史研究の重要な資料であるとともに,朝鮮語の音韻史研究においても大きな役割を果たすものである。
本稿で扱う朝鮮漢字音は,主に15世紀末~16世紀末までの中期朝鮮語文献において使用されているものである。この朝鮮漢字音については,これまで多くの人によって研究が行われてきたが,朝鮮漢字音がいつの時代,どの地方の中国語を写したものであるのか,という点については,さまざまな見解が出されながらも,今なお定説はない。
一方,中期朝鮮語当時に使われていた朝鮮漢字音は,現代韓国語の漢字音と異なる点が多いだけでなく,文献によっても(時には同じ文献の中でも)異なった字音で現れることが多いが,このような点はまだ十分には明らかにされていない。また従来の研究では,朝鮮漢字音のアクセントについての詳細な研究はほとんど行われていないという問題点もある。つまり,朝鮮漢字音の具体的なデータは十分に整理されているとは言えず,朝鮮漢字音は今なおその全体像が明らかになっていないと言える。したがって,朝鮮漢字音について研究するためには,まず各文献の漢字音を調査・整理することにより,朝鮮漢字音のデータベースを作成することから始めなければならない。
そのために筆者は,15世紀末~16世紀末に刊行された26の文献について,その一つ一つに記載されている漢字音すべてを調査し,朝鮮漢字音の一覧表を作成した。そしてこの資料に基づき,次の2点について検討する。
まず1つ目は,朝鮮漢字音を通して見た各文献の性質の検討である。この検討を通して,朝鮮漢字音が文献ごとに異なっている場合,その違いは必ずしも個別的なものではなく,漢字音を記述する根本的な方針の違いでもあるということを明らかにする。また一部の文献に関しては,刻手と傍点の正確度に相関性があるかどうかの調査や,漢字音による刊行時期の推定,異本間の校合作業等を行う。
2つ目は,朝鮮漢字音の音韻体系についての研究である。声母・韻母(声調以外)・声調の3つの観点から朝鮮漢字音についての検討を行う。
声母については,音節偏向という傾向が漢字音に大きく作用していることを中心的に検討する。音節偏向とは,中国原音での区別に関係なく,ある特定の音節に漢字音が偏って現れる傾向のことを指す。そしてこの音節偏向により,朝鮮漢字音は音節体系という特殊な体系を形成していることを指摘する。朝鮮漢字音の音節には,音節として可能なものと不可能なものがあるだけでなく,有力なものとそうでないものとがあり,有力でないものは,類似するより有力な音節へと形を変えたり,音変化を起こしやすくなっている。つまり,朝鮮漢字音の声母は,朝鮮語自身の内的な圧力によって決定されたきた面が大きいと言えるが,一方,朝鮮漢字音には,『切韻』とは異なるが現代北京方言等とは一致する現象が多く見られるなど,中国原音の性質を忠実に反映している面も見られる。
韻母については,各摂ごとに,中国語中古音の音韻体系に照らして検討を行う。その結果として,中国語中古音の体系と一致しない点や,韻母の主要な対応からはずれる例外的な現象などは,他の外国借音や現代中国語諸方言などに並行例が多く見られることを指摘する。このように韻母の体系を整理した結果,朝鮮漢字音は,複数の時代の中国語を反映した複層的なものというよりも,原則的にある特定の時代の中国語を反映したものであり,その母胎となったのは,『慧琳音義』の延長線上にある,唐末の長安音であったと推定する。
声調については,中古音の平声は低平調,上声・去声は上昇調または高平調,入声は高平調で現れるという原則に基づき,各声調ごとに対応の例外を検討する。
また朝鮮漢字音導入当時の朝鮮語音韻体系についても再構を試み,古代朝鮮語においては有気音/無気音の対立が開音節に限られていた可能性と,前舌母音/後舌母音の母音調和をもたなかった可能性を提示する。

一覧へ戻る