第一次世界大戦以降の総力戦化した戦争においては、戦場にいる敵軍を撃滅するだけでなく、敵国内の産業や敵国民に攻撃を加えることが、勝利への道と考えられるようになった。そうした考え方と、航空兵器の発達が結びつくことで、空襲という新しい戦闘形態が生まれた。空襲による国土の戦場化という事態に対しては、軍だけでなく、一般国民も軍に協力して灯火管制や消防などの活動(「国民防空」)に従事しなければならなかった。
多くの研究によって、「国民防空」が戦争に向けての国民の組織化や動員に大きな力を発揮したことが指摘されているが、その実態は明らかでない。そこで本稿では、「国民防空」の機構や組織がどのように出来上がっていったのかを、その起源である第一次世界大戦にまでさかのぼり、詳細に検討することにする。
日本は一次大戦で空襲を経験しなかったが、1923年の関東大震災によって大地震や空襲などへの対策の必要が広く認識されるようになった。関東大震災では、各公的機関の間で連携が上手くいかず、また、民間の自警団も無統制に流れ、混乱を助長する結果となった。戒厳令下で警備の主体となった陸軍は、こうした反省から、震災などの大規模災害時や戦時の空襲の際における他の公的機関との連携、および自警団を改良した形での国民の組織的動員を考えるようになった。
それが昭和初期から都市における防空演習として実現した。都市の側は、防空演習に、空襲のみならず大地震、ストライキなど、都市を脅かす様々な危機への対策を期待して陸軍に協力した。昭和初期の防空演習を通じて陸軍は、①軍と軍部外機関の代表者をメンバーとする委員会を組織し、関係機関の間の連携を確保する、②市長の下に在郷軍人会や青年団などの各種団体を統合し、それを地域行政区画に従って組織的に動員する、という軍部外官民の動員・統制システムを確立した。
満州事変の勃発は防空をめぐる環境を一変させた。満州事変を契機とした防空への関心の高まりを利用して、陸軍は東京市と連携し、1932年に市長の下に在郷軍人会、青年団などの諸団体を統合した「国民防空」団体=「防護団」を組織させ、1933年には東京を中心とする大規模な防空演習(関東防空演習)を実施した。以後、全国的に大規模な防空演習が行われるようになり、防護団も全国で結成されていく。東京での防空演習は1933年以降も毎年実施され、防護団の訓練から、更に進んで一般市民の訓練へと発達を遂げていった。
1934年陸軍科学研究所の研究によって、焼夷弾攻撃への対処法が確立された。それは、全市民が逃げることなく、なるべく早い段階で焼夷弾を発見し、その附近の可燃物への注水によって延焼を防ぐというものだった。以後、それまで灯火管制が主であった防空演習に、重点項目として一般市民による焼夷弾に対する消防訓練も加えられるようになる。これを契機に一般市民の動員が強化され、全国民を防空へ動員していく「国民防空」への道がいよいよ本格的に開かれはじめる。
防空演習を通じて実態としての「国民防空」システムが出来上がっていくなかで、これらを法制化していこうという動きも起こってくる。ところが「国民防空」の所管をめぐって陸軍と内務省との間で対立が生じた。内務省は、防空を名目とした陸軍の国内行政への介入に強い警戒を抱いたのである。陸軍と内務省の対立の基調には国務と統帥の分立という近代日本が抱える制度的な問題があり、その解決は極めて困難であった。結局、陸軍の譲歩により、最終的には内務省自身の手によって防空法が作り上げられ、1937年4月に公布された。「国民防空」は内務省の主管するところとなった。
防空法によって、「国民防空」のための計画を立てること、そしてその計画に基づいて準備と訓練を行うことが、法的に定められたことは画期的なことであった。こうして「国民防空」の制度的条件が整いつつあったとき、日中戦争が勃発し、その後、防空法(同年10月施行)に基いて防空体制の整備が進められ、1939年には警察の管轄下に防護団と消防組を統合した警防団が設置された。