戦争と書くこと 近現代日本における「戦争体験」の歴史社会学的研究

野上 元

まずはじめに、なぜ「戦争体験」を、「戦争」と「書くこと」とという両軸において明らかにしなければならないのだろうか?という問いがある。この問いには実は二つの意味が内包されている。
第一に、そうすることによって「戦争体験」という対象が、従来の「戦争体験」論(あるいは近年の「戦争の記憶」論)によっては明らかにされえなかったようなかたちで明らかになるということである。すなわち「戦争体験」論ないし「戦争体験」研究に新しい視角を付け加える、ということである。
しかし、本論において「戦争」と「書くこと」という二つの軸の交錯に注目するのは、それだけのためではない。それは単に方法的にすぐれているということだけなのではなくて、より大きな問題、すなわち「日本近代」という問題領域と絡んでいくのである。つまり第二に、「戦争」と「書くこと」との交錯において「戦争体験」をみることによって、日本近代という大きな運動の一断面を描くことができる。明治維新以降、一方に「戦争の/による近代化」があり、もう一方に「書くことの/による近代化」があった。それらは「国家」と「内面」とを双生的に造りあげる近代の運動の両輪なのだが、そうすると、「戦争体験」は両者が結びつく、特権的な場所であると予想することができるのである。
この問題設定に孕まれる二つの意味、つまり1)「『戦争』と『書くこと』との関連において『戦争体験』を分析する」という「方法」の、方法としての優位性と、2)「『戦争』と『書くこと』という二つの近代化のモメントの交錯を『戦争体験』を通じてみる」という「戦争体験」の対象としての特権性とははっきりと区別されなければならない。そして当然のことながら、後者の問題は前者のそれに比してより大きな問題である。すでに述べたように前者はここで「方法」にまつわる問題としてはっきりと確認しておかなければならないものだが、後者というのはむしろ本論が最終的に到達するべき問題である。


第一章では、「書くこと」による「総力戦」の形成とその実態について、日露戦争中より筆を起こして、昭和の戦時動員期を経て戦時中までを描いた。これら広い意味での「総力戦体制形成期」において、「戦争」と「書くこと」とが結びつくことによって、「総力戦」を遂行する軍人や兵士たちの「内面」が形成される。そしてそれらは、戦後、「戦争体験」を人々が語るための素地を用意するのである。

第一節(の前半)では、日露戦争における、総力戦的な「書くこと」の「誕生」が描かれる。第一に、軍医・森鴎外と従軍記者・田山花袋とが戦場で出会っていたことは象徴的である。戦場という「自然」を目の当たりにして「これにいかに巻き込まれずに客観的に書くか」というテーマで文体の近代化・「科学」化を図っていた従軍記者の花袋に対して、鴎外は、彼らのそうした報告文体を否定し、自らは「いかに戦争に関わったか」を主題に詩歌を練る。もはやこの戦争は、「戦争をいかに書くか」ということではなく「いかに戦争に関わったかということを書くか」ということを要求する戦争なのだ。帰国した花袋の文体が、「戦場」という対象を失ってしまえばもう次は「私生活」を垂れ流しするしかないようなものであったのに対して、鴎外の「(広義の)文体」は、堅牢な「内面」を作り上げて、総力戦時代の戦場における「書くこと」に繋がっていったのである。すなわち第二に、「軍人の魂を持った文人」である鴎外を中心として、軍人たちにとって、戦場は文事の修行の場になる。詩や俳句の会が催され、祭礼に際しては美文が要求される。軍人は須く「文人の魂を持った軍人」であることを要求されたのだった。そして第三に、鴎外が翻訳したクラウゼヴィッツの『戦争論』という書物。軍人たちはこれを争って読み、いつの日か、自分たちの戦争体験と読書体験を一冊の書物にまとめようと夢見るようになる。ここでいつの日にか書かれる「書物」は、日露戦争以降、総力戦体制の構築と共に形成された分厚い軍人官僚組織のなかで失われていった軍人たちの「名」を刻み込む対象なのであった。
第一節(の後半)では、日露戦争後、第一に、軍部という組織の同一性は、「日露戦争の大勝利」を継承し、「原体験」として共有することで保たれていたということが示される。そして第二に、総力戦体制の構築のために分厚い軍人官僚組織が形成されていったということ、「官僚たちの共和国=パンフレットの空間」が形成されていったということが示される。しかしそれは同時に、学校教育した軍隊組織の中で「原体験」が失われ、「軍人の魂」の養育が難しくなってきたということでもあった。
第二節と第三節(の前半)では、鴎外の訳した「戦争論」の熱心な読者・石原莞爾が象徴的な中心に据えられる。まず第一に、石原は、軍事学と戦争史への理解から、「日露戦争の大勝利」を疑い始め、退役後に書物をまとめることを夢見ながら、飽くなき読書と飽くなき「空想」に耽る。そうして出来上がっていったのが「最終戦争論」と「戦争史大観」という二つの「戦争学」の書物なのであった。そして第二に、その中で展開された「最終戦争」(総力戦)では、「戦争発達の極限が戦争を不可能にする」というテーゼと共に、「戦闘の最小指揮単位は(中隊長や小隊長ではなく)個人」というテーゼが示される。個人が個人を指揮しなければならないというのだ。そのために、一つには「内面」管理のために戦場をメディア空間にしなければならないということ、もう一つには、兵士の個々人が「戦争学」の読者・研究者にならなければならないということが要求される。特に前者においては、師団のラジオ放送局や映画の撮影部隊が夢想され、携帯用野戦書物である「新書」や「文庫」が奨励され、師団の図書館の充実を図ろうとする。ラジオ局や撮影部隊は全くの夢想に終わったが、書物が戦場に持ち込まれたのは大きかった(次節)。第三に、石原の軍事学は、そのような形で個人から社会全体までを結びつける、実践的な総合社会科学としての「戦争学」になる。軍隊と家庭と大学とがその重要な拠点とされ、「戦争学」をメディアとして社会の各所が結びつけられると考えたのだ。
続く第三節(の後半)では、「書くこと」と「読むこと」の、実際の兵営や戦場における情況についてが考察された。第一に、石原が夢見た映画やラジオ、カメラなどのメディア空間は結局この戦争には「間に合わず」、戦場に持ち込まれたメディア機器はといえば書物と紙とペンのみ、すなわち書くことと読むことにのみ特化して戦場は体験されることになったのである。第二に、そうしたこともあって、戦場じたい、もはや読み解かれるテクストとなり、戦場の風景は「心の風景」として体験される。そして「戦場の風景=心の風景」として「体験」してしまうようなメディア技術が、「軍事郵便」、そして陣中で記される「日記」なのであった。「風景」すなわち「内面」を形成する、これらの重要な書く技術を軍部そして兵士たち自身がどれほど重視していたかは我々の想像以上である。もちろんそれらは戦後になって大量の戦争文学が書かれ、戦争体験記が書かれてゆく前提条件を用意することになった。

戦争の期間を直接戦闘状態にある時期に限らなければ、「8・15」は一つの終わり=終わってゆくための儀式に過ぎない。「動員」と並んで「復員」は、依然として戦争の重要な一局面である。第二章では、復員期における戦争と書くことが語られる。とりわけこの時期、体験した戦争を語るための重要な言説形式である「戦争文学」の誕生とその極限が記述される。
すなわち第二章第一節では、復員してきた兵士たちが次々と戦争文学を書き始めている状況を描いた。ここでは第一に、「兵士が作家になること」、すなわち「徴兵制と戦争文学との関係」が検討された。「私はたまたま生き残った」という事実を「私はたまたま・それゆえに書いている」という事実に変換してゆくこと。すでに従軍記者たちの文体は戦争を表現することができないが、一方で、「小林秀雄」を始めとする近代文学の諸制度は強固に保存されていて、ここでは戦争体験は主に文学化・美学化されることによって書き残されることになった。つまり「戦争文学」は体験の膨大とテクストの稀少とを調節する媒介なのである。
復員という戦争の重要な一局面(すなわち戦争は終わっていない)において、「終わること」の果てしなさ・だらしなさをめぐって、記憶と書くことが連動し始める。アメリカ軍の検閲も加わって、広い意味での「復員」の過程において、兵士であったことと作家であることが常に問い直されることで書くことは進められる。「いつ死んでもおかしくなかった」ということを「いま書いている」ということに変換することによって、作家の「自意識」が誕生する。
第二節では、そうして次々と誕生した「兵士=作家」たちのなかでも特に「大岡昇平」の作家としての誕生を採りあげる。戦場の体験と行為としての書くこととのあいだには、簡単には変換できない断絶がある。まずなによりも、「戦場の風景=内面の風景」という前提のなかで、戦場において、「歩哨であること=見ること」によって得た、膨大な情報を有限なテクストに定着させてゆかなければならない。(私小説作家たちは書く内容に事欠いて私生活を語り始めたりしたのだが、ここではむしろ書くべき内容は膨大にあるのに書けないのである)大岡は、この断絶を、意味の制御技術として「詩」を管理してゆくことで埋め合わせようとする。すなわち自ら詩人になるのではない。体験者と観察者と記述者の齟齬のなかで、(中原中也という、死んだ)「詩人」を記述を生むための消極的媒介とすること。そのことで、死んだ友人の詩集を編集したように、自らの「内面」を管理し、そのことで「体験記」としての文学を書くことができるようになるのだ。
誰でも戦争を体験した時代、そのことは誰でも作家になりえたということである。「徴兵制時代の文学」=「戦争文学」は、膨大な体験を稀少なテクストに変換してゆく媒介なのであった。
第三節では、「戦争文学」のテクストの中で、「記憶」と「書くこと」とが関係しながら運動していく様子をいくつか描写した。すなわち、そこでは、どこかにある「記憶」をテクストのうえに書き取るのではなく、書くという行為そのもののなかで記憶が再獲得されてゆくのである。すなわち断片的な記憶を書くことで物質化して外部化し、それぞれを突き合わせてゆくことで、記憶を回復してゆく。そうした過程そのものとして、すなわち書くことにおいて「戦争体験」は体験されているのである。
思い出せない記憶の一部分、すなわち「健忘」が書くことを引き寄せ、書くことで「健忘」がまた切り出される。しかしそうした過程は最終的にはどこかで決定不能な記憶の虚焦点を際だたせてゆく。ここで「書くこと」はどこかで「狂うこと」に近づいてゆくことになる。その最終手段として、記憶をめぐる言葉の最終的な喪失を、言葉によって埋め合わせること。戦争体験の文学としての「戦争文学」は、書くことのそのような臨界を内部に抱えている。大岡は、メタフィクションの形式を採り、記憶の欠落自体も含めて、自らの「戦争体験」を遂行的に書いたのであった。

第三章では、復員と復興が終わった1960年代はじめ~半ばを中心に、戦争と書くことの結びつきの運命を描いた。
「戦争体験」は、すでに其処彼処において書かれ、膨大なテクストとなっている。そして、そうしたことの効果として、戦争は過去のものになっている。そのような条件のもとで、「戦争体験をどう保存・伝承してゆくか」という課題が中心となって、この時期の「戦争」と「書くこと」との結びつきは編制される。戦争を「記憶」化してゆくこと、すなわち、いかにして「書物」として残してゆくか。その「方法」はいくつかある。
その第一として第一節では、再び大岡昇平の「レイテ戦記」について検討する。大岡は、例えば特攻士たちの遺書からアメリカの公刊戦史、高級参謀の回想録などといった膨大な資料を集めて、相互を付き合わせ、それらのあいだの矛盾点を指摘しつつ、その論理的な重ね合わせによって「レイテ戦記」という分厚い書物を書いた。その分量の厚みと入り組んだ陸海空の戦闘の記述は、書物の内部において「司令部の空間」から「一兵士の視点」までを重層化させ、それ自体、レイテ戦のという戦闘の複雑に積み重なった全体を表す。すなわち、戦争という「全体」は「一冊の書物」として表象されるのだ。
ただし、その書物の表紙には大岡の名前が標されている。実証主義歴史学の方法に極めて近いとされるこの書物は結局、大岡のみた「大きな夢の集約」であるとされ、この書物は戦死者の慰霊と遺族のために書かれたものであると大岡はいう。この時期、戦争の体験についての膨大なテクストを一冊の書物へと集約する「編集」という機能が卓越してくるが、大岡はそれを文学という作者の有名性のもとでそれを行ったのである。それゆえ彼の「レイテ戦記」は究極の「戦争文学」であり、最後の「戦争文学」であった。
もちろん、この「方法」は、すぐに匿名で担われることのほうが一般的になる。すなわち第二節で示されるように、「戦争」という題名のついた「一冊の書物」が想像される。「戦争体験記」の書き手たちは、その内部で匿名化され、「戦争体験論」の言説によって強固に制度化されるのである。
それではいかにして「戦争体験」を重ね合わせるか。それが「戦争体験論」の課題である。それによれば1960年代、「戦争体験」は、すでに安易な一般化と強固な「ディスコミの美学」のもとにおかれていて、そのどちらも不毛であるという。それらを共に警戒しながら、「異質的な戦争体験がまず横に接合されてゆかなければならない。またそれと平行して各自が体験を縦に深めてゆく方向もある。体験した状況とその最初の意味は、個人ごとにいちじるしく相違している。だがそのいとぐちの違いにもかかわらず、意味の追及を続けてゆけば、多様な体験の底にある共通の核に達するであろう」というのだ。「感性的認識から理性的認識へ」。戦争体験者たちは「戦争体験記」を書き、想像上の一冊の書物に加わることで「戦争」体験ではなく、「人間一般の普遍的な体験」が浮かび上がって来るというのである。すわなち「戦争体験論」は、どこかで最終的に「普遍」「全体」の名のもとに「戦争」を消去してしまう。敗戦後20年が経ち、戦争の全体化・普遍化は、このようにして「書くこと」において現象している。その現象面として、ここでは『きけわだつみのこえ』とその普遍化、『空襲記録運動』の「国土」化をとりあげた。
第3節は、その「その現在」というエピローグである。ここでは、ある地方自治体において編集された「戦争体験記」を採りあげ、執筆者・編集担当者たち計60人へのアンケート調査および25人ほどへのインタビュー調査を行い、「戦争体験記」がいかなる社会性の中で書かれたのかを明らかにしようとした。
そこでは、かつてあったような戦争と書くこととの強烈な結びつきはすでにもう見られない。「戦争体験を書くこと」には、むしろ、戦後の個人生活史、あるいは村の人間関係に対する配慮や仲間意識、マスメディアにより流布されるイメージへの反感などが微妙に絡まり合っている。言説としての「戦争体験」は、現在、ゆっくりと死を迎えつつある。

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