16世紀前半の東地中海世界における貿易秩序とヴェネツィア人 -マムルーク体制からオスマン体制ヘ-

堀井 優

オスマン朝のマムルーク朝領併合(1517年)とそれに続く海上覇権および対外関係の東西への拡大は、東地中海貿易の代表的な担い手だったヴェネツィア人の活動のあり方に重要な影響を与えたと思われる。本論では、オスマン朝主導による新たな貿易秩序の形成過程を、二つの側面から明らかにすることを試みた。
第1章「オスマン・ヴェネツィア条約体制の変容と拡大」では、オスマン朝がヴェネツィアに5回にわたって賦与した「アフドナーメ(条約の書)」の内容を検討し、両者間の友好・貿易関係を基礎づける諸規定に重要な変化が起こったことを明らかにした。第一に、海上におけるオスマン朝の主導権とヴェネツィアに対する規制が強化されていく過程が認められる。その背景には、明らかにオスマン海軍力の強大化があった。第二に、オスマン朝領内のヴェネツィア人の権利が1513年に大幅に拡大された。とりわけ裁判規定の変更によって彼らの権利がズィンミーと同等にまで引き上げられたことが注目される。ただしオスマン領内のヴェネツィア人の居留条件は、ヴェネツィア領内のオスマン臣民のそれと連動する可能性があったことを考えれば、オスマン朝にとって重要なのは臣民とヴェネツィア人との利害の調整だったといえよう。第三に、海上秩序およびヴェネツィア人の居留条件ともに、規定の多様化・精緻化の傾向が認められる。追加規定の多くは「古来の法」や「慣習」の確認を主旨とし、この点でマムルーク朝下の諸規定と共通する。なお1513・1521年のアフドナーメで追加・変更された規定の多くは、1535年のオスマン・フランス間の条約案および1569年のフランスへのアフドナーメに適用された。それゆえ条約体制の変容は、オスマン・フランス関係の創出にまで影響を与えたといえるだろう。
第2章と第3章では海港都市アレクサンドリアに焦点をあて、エジプトがマムルーク朝からオスマン朝支配に移行する中で、ムスリム政権とヴェネツィア人との関係がどのように変化したかを、ムスリム・ヴェネツィア双方の史料を検討しつつ明らかにした。
第2章「マムルーク朝とエジプトのヴェネツィア人」。マムルーク朝による、対ヨーロッパ関係と関連する海港政策は防衛と貿易管理からなり、前者はアミールの就任する総督が、後者はハーッス監督官が管轄した。貿易管理の要点は関税徴収と香辛料取引にあり、後者を実務レヴェルで担ったのはスルタンの御用商人だった。領事が代表するヴェネツィア人居留民社会は、スルタン政権による胡椒の強制購入政策に対して居留地基金の制度を軸に対応し、この仕組みはムーダの制度とともに両者間の香辛料貿易を特徴づけた。また彼らは、商業活動を順調に営むために必要な一定の権利を、スルタンや総督その他諸官憲に対して有していた。
スルタン政権の海港政策は、とりわけガウリー期(1501-16)に軍事・財政の両面で積極化したといえる。即位当初のガウリーの財政政策の強化は胡椒政策にも及んで取引条件を悪化させ、貿易は一時中断した。交渉の結果ガウリーの譲歩によって貿易は再開される。しかし1510年に聖ヨハネ騎士団に艦隊建造用の材木運搬船を略奪されたガウリーは、ヨーロッパ諸勢力との交渉手段として領内のヨーロッパ人を拘束した。とりわけヴェネツィア人は、サファヴィー朝との同盟交渉を疑われ、敵対者に準じる扱いを受けた。
サファヴィー朝問題の収拾後も、胡椒問題は根本的な解決をみなかった。ガウリーは強制購入からの収入の確保を図り、ヴェネツィアは市場価格の上昇にもかかわらず慣習的な価格に固執した。そして強制購入の一時停止の代償としてヴェネツィア人が負った補償金の支払義務は、貿易を再度中断させた。要するに従来の制度を維持してきた仕組みが破綻したにもかかわらず、双方ともそれに対処する有効な手段を欠き、それが貿易を停滞にみちびく重大な要因となったのである。
第3章「オスマン朝とエジプトのヴェネツィア人」。オスマン朝支配への移行は、貿易の継続を一定の範囲で容易にした。海港防衛の重要度は低下し、外交手段としてヨーロッパ人を拘束する意義は消滅した。胡椒の強制購入制度は廃止され、ハーッス監督官の役職は消滅し、ムスリム商人は公権力の貿易政策に関わらなくなった。海港行政の主な担い手となったカーディーとエミーンは、ヴェネツィア人の権利をおおむね擁護した。
一方、新たな利権を得て台頭したユダヤ教徒が諸港の関税徴収を請負うようになり、アレクサンドリアでは、エジプト総督の支援を背景に貿易管理全般を主導しつつヴェネツィア人の活動を圧迫した。しかしこれはヴェネツィア人にとってオスマン権力との対立を意味しなかった。彼らはイスタンブルで大宰相らと交渉して自らに有利な決定を得ることができたからである。オスマン朝の立場は、ヴェネツィア人とユダヤ教徒との利害を調整するところにあったと考えられる。
ユダヤ教徒は1550年代までにカイロ・アレクサンドリア間の商品の流通過程を掌握した。ヴェネツィア人はこれに対抗し、総督からカイロ居留の許可を得て1553年に領事館の移転に成功した。しかし両者間の競合はその後も継続する。エジプトのヴェネツィア商業は、オスマン朝支配下で、ヨーロッパ商人とオスマン臣民との競合という、近世の東地中海貿易全般に共通する特徴を新たに刻印されたのである。

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