本研究は、日本国学における本居宣長(1730-1801)の思想を〈復原〉という観点から考察したものである。ここで提示した分析、及び比較のための概念〈復原〉とは、過去に見られる自己の軌跡からその理想としての典型を見出し、それを参照しつつ、回帰・再現しようとする発想様式、またその実践運動をさして言うのである。
儒学を「否定的媒介」(丸山真男)とする国学運動には、すでに儒学的〈復原〉発想が内在しており、宣長においてもこのような事情は変わらなかった。そして宣長の弟子を自称する平田篤胤(1776~1843)などによる後期国学の展開は、もう一つの〈宣長の復原〉でもある。ここですでに三通りの〈復原〉相が想定できるが、もともとの儒学における〈復原〉発想が一つであり、それを「否定的媒介」とした宣長の〈復原〉運動がその二つ目であり、このような師の所説を受け継いだ弟子における〈復原〉が三つ目である。
宣長の『直毘霊』を拠り所に、その前期思想から後期思想への変遷を眺望したとき、われわれは「天皇尊の大御心を心とせずして、己々がさかしらごゝろを心とするは、漢意の移れるなり」という一文、より簡潔には、その「心とする」ところに宣長思想が集約されることに気づく。本論の課題は、別言すれば〈その「心とする」を訓む〉ことである。
まさしく「心」は〈宣長の復原〉を動機づけ、根拠づけ、理論づけた根因であり、前期思想における日常性の「實情」から、「靈魂」によって代表される後期思想の超越性までをも網羅する概念である。そして、いわゆる「漢意」を取り払い、「大御心」を取り戻すという〈宣長の復原〉の根拠としての意義が問われるところでもある。
さて、「心とする」を踏まえて〈宣長の復原〉相について考えるには、その「心」の意味などがどのように使われ、あるいは変化していったかを、まず確認しなければならない。特に、前期のそれは、稿本『排蘆小船』に始まるが、このテキストの作者及び成立年代をめぐっては、長い間、研究者の間で論争が繰り広げられ、現在でも結論は出ていない。したがって、本論を始めるに際して、まずは稿本について行われてきたさまざまな議論を、その文献批評史とでも言うべき内容として一つにまとめることにした。それが、第一章稿本『排蘆小船』諸相である。
第二章では、前期における「心」の世界を理解するために、「情」「意」「本情」といった概念もさることながら、これらを「ありのまま」として捉えたことやそれがさらに「うまれつき」の「聲音言辭」を主張する音声中心主義言語学と結びつき、最終的には「神州の開闢」という起源によってその正統性を確保していくプロセスについて考察した。特に、宣長の言語観に的をしぼって、その特殊性の究明に取り組む。
第三章は、「物のあはれ」や「物のあはれを知る」ことを中心として、第二章で提示された起源の問題に翻訳という論点を加えて、宣長における「言」の世界をさらに追究していく。主に「ミチ・道・御業」という三つの概念における「翻訳」問題を、神話的言語としての「比喩」がはらんでいる「危険性」や「なる」世界の神話的文法「アオリスト」に鑑みながら〈訓み〉直す。
第四章復原される宣長では、特に「霊魂」観に即した「心」の問題について考察する。宣長の死後観の大きな特徴である「安心なき安心」と霊魂の「留まり」説との間に交錯する「心」の願望について考えると同時に、篤胤の死後観「静まり」と対比させながら、〈宣長の復原〉がさらに復原される様相についても検討する。
最後の第五章は、われわれにおける〈宣長の復原〉という観点から、現代、そして東アジアにおける〈復原〉の意義と課題についての試論とする。純粋なる系譜への世界観から、逃避でもなければ、盲目の隷従・隠蔽の放縦でもない世界への問いとは、「この人間の生存全体に意味があるのか、それともないのかという問い」(EdmundHusserl)への未来的反省でもある。
以上、〈宣長の復原〉から考えられる18C国学思想は、何よりもそれが完結した歴史ではないところに深刻さがあると思われる。のみならず、起源や根源といった、人間の固有性への着眼と願望がもたらしうる危険な衝動、すなわち、「私物」化の暴力を考えたとき、なお現実的で、生々しい問題であるに違いない。宣長は『直毘靈』で次のように警告する。

「凡てよきことは、いかにもいかにも世に廣まるこそよけれ、ひめかくして、あまねく人に知られず、己が私物にせむとするは、いとこころぎたなきわざなりかし

すると、われわれはこれまでの考察を踏まえてさらに次のように問わざるを得ない。固有性を復原すること、しかも「私物」でない固有性の復原はどのように可能であるか、と。