本論文は、慈雲の正法思想について焦点を当てて、慈雲の諸活動の特徴と全体像を明らかにし、近世仏教史において慈雲の果たした役割を究明することを目的とした。
研究内容は、慈雲の生涯・正法思想・仏教復興運動・戒律復興運動・民衆教化運動など五章に渉って考察を行い、次のような結論が得られた。
まず、慈雲の正法観は「仏在世及び賢聖在世の法」から、「一切世間のありとほり」の法、または「自然法爾」の法へと変化したが、いずれも本来の純粋な状態を重んじるという立場に立つという点に於いて同質のものである。こうした正法観は、諸活動において古風と実践の重視、超宗派思想と諸思想の摂取という形態として現れた。
慈雲の正法観をそれぞれの活動に即して見るならば、まず仏教復興運動において、慈雲は仏陀の行じた法こそ正法であると定義し、仏在世の風儀を復興することに力を注いだ。すなわち、仏知見の実践として超宗派思想と梵学研究を、仏戒の実践として諸戒律の護持を、仏服の実践として如法の袈裟の裁製を、仏行の実践として禅定を修することを提唱した。
戒律復興運動においては、仏陀の親説である諸律部をともに尊重し、依行することを主張した。すなわち、教学的には、五部律の戒脈を伝承するとともに、戒律の宗派化を否定し、実践的には、持律の重視と、僧団間の自由な交流を認めた。また、戒律の実践そのものに重点を置くことによって、僧団の構成員を細分し、僧団内に優婆塞・浄行優婆塞・爾農という新しい階級を設けた。
この他、古風を重んじる態度からは、別受を復興した。別受の復興は覚盛・叡尊以来約五百年間続いてきた変質した授戒法を、伝統的な方軌に取り戻したという点において、日本仏教史の中で大きな意義を持っている。
民衆教化運動においては、大小の諸経論を隔たりなく広く受用し、十善を人となる道のみならず仏果をも期する法として位置付けた。十善運動は、十善が卑近なものとして、日常生活の中に倫理として馴染みやすく、一切の人に適用されるという点において、正三の職業仏行説より普遍性をもっている。
一方、慈雲の思想は十善運動と神道研究によって新たな地平を開くこととなった。
まず、慈雲の正法観は、仏教概念から普遍的な概念へと展開したが、こうした態度は十善運動をきっかけに芽生え、神道研究によって明確化された。
また、十善運動以降、慈雲の十善観は大きな変化を示し、十善は世間戒から一切戒の根本となる戒へと見直され、正法律と同等に位置付けられた。こうした十善観の変化は、一方では尽未来際に至る十善戒の創案をもたらし、形同沙弥戒として採用されることとなった。
慈雲の十善観は、神道研究以後は神道と深く結び付けられ、十善は神道と表裏関係にあるものと見なされた。