明清両代の童謡集

呉 翠華

「童謡(どうよう)」とは、大人が作って子供に歌わせる歌謡、そして子供が作って歌っている歌謡をいう。人間が生まれて初めて接する文学であって、児童文学の中でも極めて重要な位置を占めている。
中国では古く戦国時代の『国語』などで、すでに「童謡」が記録されていた。明代以前にあっては、各時代の歴史書、特にその「五行志」の中に多くの童謡が記録されてきた。だがそれらの大部分は政治的な意図によって収録されたものであった。明代の呂坤は童謡を改作して『演小児語』を編纂し、これが中国最初の童謡集となる。さらに清の鄭旭旦は『天籟集』を、悟痴生は『広天籟集』を編纂した。五四運動以後、民俗学や児童文学の視点から童謡が収集研究されるようになった。中国における「童謡」収集の発展過程は
(I)歴史書・歌謡集に記されている童謡
(II)明・清における知識人による童謡集の編纂
(III)清末以後、民俗学の一環としての童謡の収集・創作・研究
の三段階にまとめることができる。「童謡」が(I)から(III)までの変遷過程をたどる上で、(II)の明・清の知識人が編集した『演小児語』、『天籟集』、及び『広天籟集』の三つの童謡集は、それぞれ重要な役割を担っている。本稿では『演小児語』、『天籟集』、『広天籟集』を対象に、これら童謡集の編集や内容などについて検討した。所収の童謡の訳注を末尾に付録として付している。
一、『演小児語』
『演小児語』は高官でもあった知識人、呂坤によって編纂されたものである。呂坤の父・呂得勝は子供が歌っている歌は無意味であると考え、呂坤に新たに童謡を作ってそれに取って代わらせるよう命じた。呂坤はこれをきっかけに、当時河南・河北・山西・陜西に伝わっていた童謡四十六首を材料とし、児童の役に立つよう心身義理を備えた内容に改作し、『演小児語』を編纂した。
また、呂坤は官員として山西・山東・河南・河北などの各地方に派遣され、様々な職を務め、民衆の状況を良く理解していた。民衆教育に不足を感じ、教育するなら内容だけではなく民衆に馴染む形式を用いないと効果を発揮できないと考えていた。民衆教育のために作った書物が全て歌謡の形式を用いていることからみて、呂坤は歌謡を最も相応しい形式と考えていたことが分かる。児童教育のためにも童謡に着目したのはそのためである。但し、子供には既に自ら歌うものがあったから、如何にして『演小児語』をこれらの童謡に取って代わらせるかが大切であった。この問題について、呂坤は子供が馴染んでいた童謡を改作し、それが児童の間で歌われ自然に伝播することで、全ての児童そして後世の児童さえをも教育する目的を達しようとしたのである。
『天籟集』の作者の鄭旭旦は刻苦勉励し、自分の才能をも自負していたが、科挙に合格できない上、他郷に寄寓する不遇な失意の知識人であった。『天籟集』編纂の動機について鄭旭旦は、童謡は天地の妙文であり天機を蓄えているが、当世の歌謡は猥褻で下品なので、童謡をもって世間の人に教化を与え人の心を浄化しようとしたと述べている。しかし、不遇な知識人ではたとえ教化に役立つ著書を出しても世には受け入れられず、かえって軽蔑される恐れがあった。そこで鄭旭旦は童謡に評論を加えることによって、自分の考え方や気持ちを表すとともに自らの才能を示し、童謡集が伝わることによって自らの著述も後世に伝わって行くと考えた。こうすることで、立言をもって不朽になる目的が達せられ、後の有識者に認められることを期待して現世に才能を認められなかった悔しさを慰めに変えることを望んだのである。
鄭旭旦がこのような動機と心境で選んだ童謡は主に自らの哀れな境遇に似ている女性の不幸な運命を嘆くもの、或は社会に対する風刺的なものである。鄭旭旦は(一)女性が家庭で不当な扱いをされた憤慨や結婚に対する不満を表すものを通じて、才能が埋もれている感慨を述べ、(二)社会における人間関係、民生、風俗に関するものを通じて、世間の風習が次第に腐敗して行き、人に古の純朴さがない社会と政治の現状を指摘し諌め、(三)言葉遊びなどの面白く笑わせるものを通じて、文学的な美学的感覚を表し、これらによって自らの才能を現わそうとしたのである。
『広天籟集』の編集者悟痴生は、当時の人が『広天籟集』のために書いた序文によれば、風雅な士人で、諧謔があり学識豊かであった人物という。悟痴生は童謡を、民謡と同じように民衆が自然に歌いだし、純真な感情が現れるものと考えた。そこで、日頃子供が遊ぶ時に歌っていた童謡を聞いて興味を感じ、悟ることがあったものを書き記してゆくうち一冊になった。書名を同じく「天籟」としたが、悟痴生にあっての天籟は、天機を積み蓄えるという意味の鄭旭旦の天籟とは異なり、純真な感情を表す自然な声という意味である。
風雅な趣味として童謡を書き記し編集した『広天籟集』は、『天籟集』と同じ編纂方式を用いているが、多くの方言を残したままで記録し、内容は主に(一)遊ばせ歌、眠らせ歌、(二)あやし歌、(三)言葉遊び、(四)揶揄、(五)遊戯の歌である。同じく童謡の前後に評をつけるが、『天籟集』のように自分の感情を表すのではなく、童謡の内容について子供が歌を歌った心理を解明し、自分が感じたことを述べている。
同じく童謡に注目した三者ではあるが、童謡について呂坤、鄭旭旦、悟痴生はそれぞれ違った考え方を抱いていた。呂坤は童謡を児童教育に最も相応しい手段、鄭旭旦は童謡に事よせて自分の真意を述べる方法、悟痴生は童謡を子供の真情の現れと看た。このような考え方に基づいて編纂した『演小児語』は啓蒙書、『天籟集』は民謡風、『広天籟集』は子供の歌の童謡集になっている。所収童謡の形式についても異なる特徴が現れている。
『演小児語』では六句式からなるものが主体となり、三字句が最も多く用いられ、主として二句を一対として韻を踏み、多くの場合は途中で換韻している。対句様式が多く、対聯のようにきちんとした対になっている。歌いだしは「三三」の形式が多く、下に繋がる内容と因果関係を持っている。
『天籟集』には感情を歌い表す長篇のものが多く、一句の字数は三字から十字まであるが、三字・五字・七字が中心となる。押韻は多様で比較的自由である。応答の形式を用いて気持ちを表すのが特徴である。歌いだしは『演小児語』のように歌の内容を提起するものもあれば、内容と係わりなく韻の繋がりで歌う“引韻”の役割を果たすものもある。
『広天籟集』には比較的三字句が少なく、七字句を中心とするものが多い。方言と擬人化、尻取りの技法が多く使われ、押韻は『天籟集』と同じく比較的自由であるが、一韻到底のものが多い。歌いだしも『天籟集』と同じく、意味上と音声上の繋がりがあるが、意味上の繋がりの方が多く見られる。
『演小児語』ができる以前、童謡は天のような存在であった。知識人は政治のため童謡の収集を行ったが、童謡を児童の視点で見る意識はなく、あくまでも知識人の産物であった。通俗的な形式を用いて心身道理の内容を持つものに改作しながらも、童謡集『演小児語』は、専らそれまでの政治に関する童謡の記録から、人生と社会に係わる事物を対象とする童謡へと関心を変化させた。『天籟集』の編集はさらに童謡の働きを社会から大人へ、『広天籟集』は大人から子どもへと近づかせ、五四時期から始まった児童の童謡を収集し研究する基礎を定めたのである。

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