この研究は日本の清国との貿易の実態とこれにまつわる政策を、1859年の安政開港から1890年の準備金制度廃止までの期間を対象に、伝統的な対清輸出品である海産物を主に取り扱う「広業商会」の盛衰の歴史を通じて分析しようとするものである。広業商会は1876年に政府が清国商人に対抗して清国への直輸出を進め、併せて正貨を獲得することを目的に創設した、内務省・大蔵省の用達貿易会社で、初代店長は笠野熊吉という人物であった。
明治国家は成立当初より、通商会社と為替会社による対外貿易コントロールを試みた。清国とは、修好条約の締結によって平等な外交、通商関係を樹立し、1868年まで海外において利益を得たことのない日本商人に対し、政府が最初の進出先として選択したのは上海であった。政府の主要官員が米欧回覧に出かけている間に、海産物の主要産地である北海道を管理する開拓使は財政上の緊迫性から、1873年より対清直輸出に踏み切った。薩摩出身の商人笠野熊吉は開拓使の直輸出事業、後に蕃地事務局用達として活動した。
大久保利通は安定した政権を確立した後、外債償還・正貨獲得という目標を掲げて、海産物の直輸出権を内務省・大蔵省の管理下に収めた。そして開拓使の手中にあった対清貿易資源(産物、貿易ルート、人材)を掌握した。広業商会は上記の国家目標を背負って、準備金を資本金とした内務省勧商局・大蔵省国債局の用達会社として1876年6月に創設されたのである。これ以降、百万円前後の準備金を運用して、対清貿易にまつわる殖産興業政策、正貨政策の重要な実行担当者として、直輸出を主要業務とした広業商会は大隈財政期においては三井物産を凌ぐ規模を有し、東京本店、函館、長崎、神戸、大阪、横浜、上海、香港支店において活躍していたが、松方財政期には、財政の緊縮に伴う資本金の整理と、居留地貿易の容認に基づく横浜正金銀行による外国人を対象に入れた荷為替営業の開始により、広業商会は縮小・整理され、資本金の返納を行っていった。そして、1890年長崎支店の閉鎖をもって広業商会は15年の歴史を閉じた。
筆者は先行研究の成果を踏まえ、明治初期の政治史、財政史研究の角度から以下の四つの新たな視点から考察を行なった。すなわち、広業商会のルーツを開港以来の薩摩の対外貿易活動と長崎を窓口とする日本の対外貿易体制まで遡ることが必要であること、長崎支店の経営活動は日本と朝鮮の貿易関係を反映できること、大隈財政期において広業商会が直輸出のほかに正貨政策の一翼を担っていたこと、松方財政下の直輸出政策の転換が会社の運命を決定づけたこと、について考察する、である。具体的には開港から広業商会成立まで、大隈財政期、松方財政の三つの時期に分けて、広業商会の創立・成長・破綻の過程を時系列にたどり、明治初期における中央集権的国家の保護統制を条件とする対清貿易の実態――近代アジア通商秩序の形成過程における日本政府が果した役割および日本企業の活動実態でもある、を解明することを課題とし、大久保政権下における開拓使権益の中央への吸収、開拓使官有物払下事件のこれまで明らかにされていない背景や、財政的には対清輸出品の生産・輸出に投入される準備金の運営実態、松方財政期と大隈財政期の正貨・対清貿易政策の変容を明らかにした。広業商会の閉店後、国家課題の設定により、日本政府の対清貿易への関与方式も変化を遂げていった。その実態を究明することを今後の課題としたい。