モンゴル時代の兵站政策に関する研究 −大元ウルスを中心として−

矢澤 知之

中央ユーラシアに興り,史上空前絶後の領域を確保して,遊牧騎馬民族国家の頂点の地位を占めたモンゴル・ウルス。その世界史的な意義はきわめて大きい。本稿では,モンゴルに発現した“ウルス”の特質の解明を大きなテーマとして掲げ,大元ウルスを中心として,フレグ・ウルスも視野に入れつつ,兵站政策という切り口からこのテーマを論じた。
まず,モンゴル・ウルスと直接間接にかかわる歴史上の諸国家について,その軍制や兵站政策の変遷を概観し,そこにみられる普遍性や特殊性を素描することから始めた。それにより,大元ウルスが登場する以前の歴史において,遊牧民,農耕民,商業民らが持つさまざまな政治や社会の要素は複雑に絡み合いながら展開してきた点などを指摘した。
次に,『元朝秘史』および『集史』に散見されるモンゴル時代初期のイェケ・モンゴル・ウルスにおける兵站陣営アウルクについて考察し,アウルクが時代の経過とともに規模を拡大させ,内部の組織化を進めたことや,輜重陣営としてだけでなく,「家族に付随する集団」という意味で認識されるケースがでてきたことなどを解明した。
さらに,アウルクが,漢地において兵站組織=奥魯に,さらに兵站制度=奥魯制に展開していく過程とその背景にある諸事実との関連をを描き出した。アウルクは,モンゴル軍のみならず漢軍にも適用され,軍戸制や社制とも連動しながら漢地の人民を総動員する役割を果たし,その結果,南宋の攻略はようやく実現するに至った。
平宋後,大量に吸収した新附軍人をいかに配置するかという問題が顕在化した。そこで積極的に施行されたのが屯田制であった。大元ウルスの屯田制は,中国歴朝と比較して大規模かつ広範囲に施行されたといわれるが,統計をまじえて考察した結果,初期の対南宋戦のための軍屯よりも,平宋後に新附軍人を配置した社会政策的な意味を持つ屯田のほうが主であることを確認した。また,大元ウルスにおいて最大の規模を誇った河南江北行省所轄の屯田と,侍衛親軍に属する枢密院所轄の屯田について,それぞれの実態を精査し,軍民異属の原則が厳格に適用されていたことなどを明らかにした。なお,奥魯制と屯田制がどのように連繋しながら機能したのかという点についても,河南江北の諸軍団を例にとって考察し,モンゴル政権が南宋作戦から平宋にかけて,奥魯と屯田による二つの兵站政策を状況に応じて使い分けながら中国支配の基盤を形成したことを指摘した。
また,大元ウルスにおけるこれらの兵站政策が,フレグ・ウルスの場合と比較してどのような性格を持っていたかを検証し,両者の農耕地域における兵站政策が共通している面の少なくないことを指摘した。
最後に,大元ウルスの軍人の社会的位置づけをさまざまな角度から検証した上で,当時の軍制の特質である軍民異属の制に関して,中国やユーラシア諸国家との比較の視点から論じ,それは従来の兵民分離の政策を戸や人身のレヴェルまで徹底させて軍人の供給とその兵站基盤を確保する合理的な施策であったことを明らかにした。

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