徐志摩と新月社 −近代中国の文芸的公共圏

星野 幸代

本論は、1920年代に活躍した上層中産階級の知識人・徐志摩が創始した文人グループ・新月社を、J・ハーバーマスが近代初期の英仏独を対象として析出した「公共性」理論の中で論じる。すなわち教養ある知識層が文芸を論議する場:文芸的公共圏として新月社をとらえ、徐志摩サロンというその性格上主として徐志摩を軸としながら、その歴史的形成過程から施設化、機関、戦わされた議論、典型的な文学形式、その解体までを追い、新月社の存在意義を問い直そうとするものである。
近代国家の形成期に、政府の重商主義に応じた初期資本主義の要請から情報流通の諸システムが整えられ、印刷技術も急速に進む。啓蒙書に始まりやがて商品化する出版物は、これらのシステムに載って普及する。
清末・民初に整備された近代的教育制度は、上層中産階級のエリート化をもたらした。資産階級に生まれ、近代的教育制度を受け、私費留学した徐志摩の学歴はこの階層の典型といえよう。女子教育も整えられ女子知識人層が形成され、近代的学制による読者層は1920年代には50万人近くにのぼった。五四運動は、これらの青年知識人男女は交際のきっかけと、創作のテーマ、創作意欲を与えた。
徐志摩は1918―22年米英に相次いで留学した。米国では女権論に初めて触れた。英国ではケンブリッジの知識人から思想的に大きな影響を受けた。H・G・ウェルズ、B・ラッセル、ブルームズベリー・グループの人々などの知識人サロンに出入りし、徐志摩は因習的な社会観念への懐疑心、議論による真実の追求を習得した。
徐志摩は帰国後自ら知識人サロンを開く構想を固め、1924年北京に新月社を発足させる。新月社の性格はブルームズベリー・グループに共通するものが多い。メンバーは上層中流階級の出身者で大卒並みの教養を持ち、女性を主要メンバーに含む。活動は友人同士の読書会に端を発し、忌憚のない議論、演劇上演を行い、出版社を創設し主に友人達の著書を発行する。徐志摩は、20世紀英国においてボヘミアン的に文芸的公共圏の性格をとどめていたブルームズベリー・グループを意識的にまねて新月社を興したのではないかと思われる。
新月社グループは多くの新聞雑誌に関わった。『現代評論』は北京大学教授陣による政論雑誌とみなされるが、新月社グループの初期創作が多く発表されたという意義がある。『晨報副刊・詩鐫』、『詩刊』同人は新詩の一流派をなした。『晨報副刊・劇鐫』『美展』は演劇・美術に関する啓蒙的なメディアであった。新月社グループが関わった最も大規模な論争は女師大事件に発する『語絲』派との論争である。その経過を追うと、各グループがメディアを通じて議論を発信し、各々を支持する公衆を形成するさまがうかがえよう。論調には論戦相手への私情が色濃く、当時の文壇の人間模様が反映されている。さらに女性が議論に深く関与していた。これらは文芸的公共圏における議論の特徴と符合する。
新月社は自由意思による恋愛の場でもあった。メンバーは恋愛と友情が錯綜する男女交際から創作の素材と刺激を得た。新月社の男女合作の一成果にK・マンスフィールド紹介があるが、これは彼らが心理小説──文芸的公共圏にみられる典型的な形式──を愛好した一例としても解釈できよう。
中国における日記書簡体文学ブームは20年代後半―1936年に見られた。この時期に、日記書簡は内面を表現する一形式であると承認されたのである。このブームは国民革命が行き詰まった時期に重なり、知識人の反省の記録として解釈できよう。この文芸的公共圏に特有の文学形式を、新月社グループはもっと早期に受容し、優れた作品を残した。日記書簡の公開をめぐる新月社グループの抗争は、日記書簡が隠したい内面を暴露するもろ刃の剣であると彼らが認めていたことを物語る。
文芸的公共圏の定義を、知識人が文芸を議論する場であり、機関誌により外部に議論を発信し、それを支持する読者/公衆を持つという意味に限れば、それは同時代に新月社の他にもあり、前後の時代にもあった。だが女性を主要メンバーとし、近代的な自由意思の表出、日記書簡体文学および心理小説の受容の深度という要素を加えると、新月社は比類のない文芸的公共圏であったのではないか。
新月社グループの文芸的公共圏たる性格は1920年代までであった。1930年代中国では抗日という統合文化が文芸界を席巻する。新月社グループの社会的影響力は弱まり、ある者は統合文化に吸収され、ある者は孤立し、徐志摩の死と相まって新月社は文芸的公共圏の性質を失い崩壊したといえよう。

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