本論文は、初期仏教教団の部派発生の背景及びその過程を探ることを目的とする。従来、仏教教団の部派分裂に関する情報は、主に諸文献に記されている伝承を通して得られてきた。しかし、これらの伝承から得られる情報は極めて限られており、部派分裂の原因やその過程については、未だに不明確な点が多い。
従って、本論文では、諸律や碑文などの資料から得られた情報を積極的に用いて、仏教教団の中で起きた諸諍事を中心として、初期の諸部派が成立していく具体的な過程を考察した。以下、本論文で考察した部派分裂の過程の概略をまとめて説明する。
まず、部派発生の最初の段階として考えられるのは、現前サンガレベルでの分裂である。つまり、界(sImA)という地域的な限定によって成立した現前サンガに属していた者たちが、経律の解釈などを巡って自らのサンガから分かれ出て、別のサンガを形成することによって、多くの現前サンガが生じた段階である。諸律のコーサンビー度には、現前サンガの中で、経律の解釈を巡りサンガ側と意見の一致を見なかった者たち、すなわち、三種の挙罪羯磨を受けた者や破僧者など、いわゆるサンガ内部で不同住の状態に置かれていた比丘たちが、独自のサンガを作って出ていくことを容認する記述が見られる。仏教教団が、見解を異にする者に対して取っていたこのような緩やかな態度は、その意図とは裏腹に、見解を同じくする者同士のグループ化を促進し、その結果、多くの現前サンガが形成された。この現前サンガレベルでの分裂は、部派成立の前段階であったと考えられる。
次に、仏滅後二世紀の初頭に起きたとされる、上座・大衆の根本分裂に関する諸伝承の検討から、このような複数の現前サンガが、時代の変化とともに僧院の定住化や、教団の拡張が進んだこともあり、性向を同じくする者同士を構成員として各地に大サンガを形成していく様子が明らかになった。この結果を踏まえた場合、これらの諸伝承における根本分裂とは、上座と大衆という二部の対立と考えられていたが、実際は、各地域を中心に形成された大サンガや、四衆などと呼ばれる幾つかの集団の対立と見るべきであろう。従って、これらの集団が教団の分裂における主な対立勢力であったことは明らかである。そしておそらく、これらの集団間に生じた対立意識が、仏滅後二世紀を前後として、上座と大衆との二部の分裂という形で表面化したのであろう。諸伝承では、このような教団内の変化を根本分裂の事件として捉えていると思われる。しかし、このようにして生まれた上座と大衆とは、非常に広範囲な部派の概念であり、その時、実際部派としての意識が込められていたとは考えられない。すなわち、これは、独自の律蔵を所有し、自らのグループを他のグループと明確に区別する意識をもって活動した集団、つまり、われわれが一般的に部派として認識している集団の成立にはまだ到っていない状況であったと思われる。
そこで本論文では、これらの集団が部派へ成立する時期として、アショーカ王時代に注目した。なぜなら、王の時代には、社会的・政治的・経済的に大きな変化があったが、仏教教団もこの時期を境として著しい発展を遂げているからである。また、この時期を前後として、教団の内部では、サンガの集団行事を集成した度部が作成されたと思われる。従って、このようなアショーカ王時代の教団内外の変化によって、度部が各地域を中心に成立していた大サンガに伝えられ、部派としての明確な意識をもつ集団が成立するきっかけを与えたのであろう。
この時に成立した諸部派間の具体的な状況については明らかでないが、アショーカ王に関する諸部派間の伝承が異なることを考慮すると、当時、幾つかの部派が独立していたことは明らかである。しかし、一方、王の諸碑文をはじめ、王の時代に関する諸資料の中には、仏教部派の存在を明確に示す資料が存在しないことを考慮すると、それらの部派は、教団外部の人々が気付くほど明確なものではなかったと思われる。従って、アショーカ王時代の仏教教団は、インド各地に成立していた諸集団が度部の伝播をきっかけとして、部派としての意識を持つようになり、成長していく時期にあったと考えられる。
このように見た場合、仏教部派は、諸文献が語るように、何らかの事件をきっかけとして一気に二部に分裂したり、あるいは、ある部派から特定の名前をもつ集団が分裂したりすることによって成立したのではなく、むしろ、以上で述べた諸段階を経ることによって、互いに集団意識を共有するようになり、独自性を自覚した諸集団が形成され、後からそれに部派名が付けられたと考えるべきであろう。