本研究は、八代集の掉尾を飾る『新古今和歌集』の撰集下命者後鳥羽院について、その和歌への興味がいかなる環境から胚胎したか、院の文学活動と志向と存在が当代の歌人たちの和歌活動や作品といかにかかわっていたのか、院自身の文学活動や作品がその時代や和歌史の影響をいかに受けていたか、という三つの観点を軸に、具体的な詠歌の場、作品の考察を通して明らかにしようとしたものである。
後鳥羽院の和歌を考える際に無視できないのは、その政治とのかかわりであるが、院の和歌における政への志向は、院のみの営みに帰すべきものではなく、院が主催する詠歌の場に集っていた歌人たちとのかかわりにも見いだせるのではないか。この問題意識のもと、本研究一、二篇中の何章かで、歌人たちとのかかわりについて考察をおこなった。第一篇第一章「後鳥羽院の『大内の花見』」では、後鳥羽院のはじめての詠歌が、近臣たちの連帯感に満ちた場、共通の基盤に拠った詠歌行為がなされている折に詠まれたことを明らかにしたものである。また同第四章「『熊野懐紙』の和歌」では、後鳥羽院の熊野御幸途次における当座歌会が実景・実感を結題詠に詠みこなすことに対する後鳥羽院の興味から企画されたこと、類同表現、祝言詠が、催しの主宰者後鳥羽院の志向への共感意識から来ることなどを、表現の検討を通して指摘した。第二篇第一章「後鳥羽院の水無瀬」では、水無瀬が、院の超私的空間であり、そこには〈水無瀬の論理〉とも言うべき、後鳥羽院のものさしによる自由平等の意識があったことを指摘した。また同第四章「『最勝四天王院障子和歌』について」では、名所障子絵のありようと和歌の表現の分析を通して、この催しでは、後鳥羽院の志向が建物・障子絵で具現化されることで、そこに書かれるべき歌を詠む歌人たちの志向性も強まり、そこに君臣相和して日本国の統治をはかる仮構の空間が現出していることを示した。以上の考察から、これらの詠歌の場において、後鳥羽院の存在・志向・和歌活動は、その場に連なる者に、その場固有の連帯感や共同的な基盤をもたらし、詠歌の契機や表現をもたらす象徴として存在していたこと、それによって、まさに君臣相和して、院の、和歌における政への志向を高らかに歌い上げていたことが明らかとなった。
さらに、本研究では、後鳥羽院を和歌にのめり込ませる契機が奈辺にあったのか、その和歌への興味を胚胎した環境を追究することをもう一つの軸としている。それは、かくも強力な志向を持って歌人たちとかかわっていった後鳥羽院も、環境に大きく左右されて成ったことを見定めたかったためである。第二章「『和歌色葉』奥書に見る後鳥羽院の和歌活動の萌芽と環境」は、院譲位の年に献上されたという歌学書『和歌色葉』の周辺を探り、当時はまだ和歌への興味の片鱗もうかがわれない後鳥羽院であるが、周辺には後鳥羽院の好尚をふまえた近臣や、和歌を専門としない者の思惑、動きがあったことを、『和歌色葉』奥書に見える人物から考えてみたものである。また、第三章「後鳥羽院の和歌活動初期と寂蓮」では、早くから後鳥羽院に近仕していながら影響関係を言及されない寂蓮について、その歌人としての全体像を確かめ、後鳥羽院とのかかわりを探っている。
本研究が第三に軸とした観点は、それぞれの詠歌の場において、共同的な基盤を作り出す核として存在していた院自身もまた、生きていた時代のムードや積み重ねられてきた和歌表現の歴史、それを享受しうる人々という共有する空間の、共同の基盤の中で詠歌行為をおこなっていたという事実を和歌表現から明らかにしようと試みたものである。第二篇第三章「建暦二年の後鳥羽院とその周辺」は、建暦二年という年に、良経を思慕する人々に共通して広がっていた哀悼・懐古の気分が、後鳥羽院の文学行為にも影響しているのではないか、ということを、外的要素と和歌表現から検討し、さらにそこから『後鳥羽院御口伝』の執筆時期の推定を試みたものである。また、第三篇では、「隠岐の後鳥羽院」と題して、三章に分けて考察をおこなっている。第一章「『遠島百首』の基本的性格と改訂」では、隠岐配流初期の詠歌を母胎とする同百首に、配流以前当たり前に自分がいた共有の空間、共同的な基盤から放り出された者の〈実情実感〉が一貫して詠まれていることを指摘、第二章「隠岐の後鳥羽院における信仰」では、隠岐の後鳥羽院における、神と仏のかかわりを考え、第三章「置文をよむ」では、『水無瀬神宮文書』置文案を中心に三通読解し、信仰という面を通して、後鳥羽院がいかなる心情でこれらをしたためたか考察したものである。なお、別冊資料として、後鳥羽院事績年譜と和歌拾遺を付してある。