フランス古典悲劇における毒の役割 −メデからフェードルヘ−

永井 典克

周知のようにラシーヌのフェードルは毒を飲んで死んでいる。しかし、セネカ以来フランスのフェードルは伝統的に剣で身体を貫き死んでいった。勿論この変更は舞台を血で汚さないという「適切さ」の要請に従うものでもあったが、毒という単語に注目して『フェードル』を読み返すと、実はこの悲劇には毒が溢れていた。またラシーヌ自身「毒」という単語に敏感に反応する作家であった。本論は毒というキーワードを使い、『フェードル』を読み解こうとする試みである。
まず、古典悲劇に現れる毒を分類し、フェードルの飲む毒を演劇史的に位置付ける作業をおこなった。このとき毒と薬は元来1つのもの、Pharmakonであるという毒の二重性を念頭においた。そして、17世紀のフランス悲劇及び、作家たちが手本にしたギリシア・ローマの作家たちの作品をコーパスの中心とし、古典悲劇作家がそれぞれの作品に付け加えた変更点を追いかけながら調査している。
毒は、魔女メデの贈物に見られるように他者を害するものであり、毒に関わるものも騙すという特性を備えている。それに対して、騙す必要のない毒、自死に使われる毒は、ソフォニスブが飲む毒のように名誉を保つ高貴な役割を担うものであった。
『フェードル』においても毒は、薬と毒の二面性を持っていた。不義・不倫の愛という毒は、告白と讒言という毒・薬を経て、怪物を生み出しイポリットを殺す。そしてフェードルは罪を清めるために毒を飲む。愛の毒は乳母エノーヌを触媒として薬となるが、ヴェニュスの呪いゆえに有効なものとなりえずに毒となる。その毒はまた薬を必要とするであろう。毒・薬の二面性によるこの連鎖反応が『フェードル』の物語を動かす力であった。
また『フェードル』における毒は単なる毒ではない。その後ろには当時流行していた太陽の娘たちに関する神話が控えていた。ラシーヌは「毒」をこの悲劇に取り込むことにより、悲劇に神話的な厚みを与えることに成功していたのだ。彼は薬・毒の二重性を最大限に生かした作家であったと言える。
今までこのような舞台上の毒の役割についての研究はなく、本論は古典悲劇の一側面を明確にするものである。

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