宝永・正徳期浮世草子研究

杉本 和寛

浮世草子の歴史は天和二年の『好色一代男』以来、天明三年まで約100年間あり、その間には、約600点もの新刊作品が生み出されている。本論文でとり上げた元禄末年から正徳に至る約20年の間には、その3分の1にあたる200余りの作品が書かれている。それはこの時期が、一風・菊屋対其磧・八文字屋という作家と本屋を巻き込んでの主導権争いの時期であり、またその後、主導権を握った其磧と八文字屋が今度は抗争状態に入るなど、つねに有力作者・有力書肆に争いがあり、その結果として趣向・ジャンル等に関して、読者に受け入れられるためにつねに新しいものを求める動きが盛んであり、また、上記の作者以外にも、都の錦・青木鷺水・月尋堂・北条団水・錦文流ら有力な作者が多数いたことなども、その要因と考えられる。いわばそれぞれの作者達がさまざまな方向性を模索して大量の作品を輩出していた、浮世草子の歴史にとっては混沌の時期といってもよいであろう。

本論文ではそうした数多くの作品群のうち、まず第1章においては町人物に焦点を当て、その変遷について考察した。

第二章では、まず第一節では、『好色一代男』における源氏物語摂取について、これまでに論じられて来たさまざまな議論を整理し、この議論における曖昧さの生じる原因を検討した。『曽我物語』や、『義経記』とは違った『源氏物語』そのものの江戸時代における受容のあり方に大きな問題があると思われるからである。また、第二節では、『御前義経記』がその主人公の造型において、徹底的に弱い主人公を造型した意味について考察した。新しい好色物を模索する一風と、当時の商家をめぐる社会情勢、一貫して弱い主人公を要求し、それが一風の「やつし」の方法の確立と深く結び付いているのである。

第三章では、赤穂浪士事件の3年後に作られた『傾城武道桜』が、おそらくはすでにかなり固定していたであろう、赤穂事件に関する風聞をそのままとりいれ、際物の事件でありながら、古典のテキストのように固定した内容であることによって一風の「やつし」の方法がいかされたことを、『介石記』などとの比較を通じて論証した。

一覧へ戻る