芥川龍之介研究 ——境界意識の変容を中心に——

秦 剛

本論文の目的は、芥川の作品にあらわれる独自の境界意識に着目し、その変容の過程を具体的に検証することによって、作者の創作意識の軌跡に、新たな再評価を試みることにある。

[第I部作家論]

第一章では、〈日暮れ〉、〈門〉、〈ぼんやり〉等の語をキーワードとして、それぞれ物語の時間、場所、人物という三つの要素から、芥川の小説の持つ境界的な性質を考察している。芥川の小説の登場人物たちの特質を分析する際に、〈ぼんやり〉という語に表象される意識の宙吊り状態は、重要な手掛かりとなり得る。〈ぼんやり〉することは、境界の上にある人間の普遍的な様態を示すものであり、芥川の境界意識は〈ぼんやり〉という言葉を媒介にその作品の行間に浸透し、しかも作中人物に対し、境界にある人間独自の属性を刻印している。

第二章においては、まず芥川の中期の小品である「沼」「窓」「尾生の信」などの解読を試みている。これらの小品では共通して、境界的空間或いは境界的時間の上に自ら身を投げかけ、ある不動の身体的姿勢を保つことによって、精神の永続的な飛翔と越境を保証する、という中心思想が言説化されている。本章の後半では、〈待つ〉という行為の象徴的な意味を論証した上で、〈待つ〉という身体性によって、芥川文学の作中人物たちの総体的な特質を捉え、芥川文学におけるその独自の系譜を検証している。

第三章では、〈待つ〉ことと相通ずる意味を持つ〈さまよう〉という行為を軸に、芥川文学の流れを整理している。芥川の造形した数多くの〈さまよう〉存在を具体的に分析する際に、地上志向の〈さ迷う〉混迷者と天上志向の〈彷徨う〉求道者という二つの系統に分け、該当する作品を考察していく。この二つの系統は相反する関係にありながら、それぞれ、作家芥川が認識した自己像の正と負の両面の表われであり、この両極に托された自己の分身の間を行き来しつつ、絶えず新しい自己が創り出されていく運動を通し、作家芥川の精神史をうかがうことができるのである。

[第II部作品論]

〈第一章「蜘蛛の糸」論〉

「蜘蛛の糸」という物語は、反転不可能な特殊な構造をなしている。作品のストーリー構造の脆さは、原典であるポール・ケーラスの『因果の小車』に描かれた一元的な世界を、あえて「地獄」と「極楽」の両極に引き裂いてしまった改作に由来していると考えられる。此岸と彼岸を連結しようとする意志に駆られる一方、彼岸の超越的存在に対する信仰を持たない芥川の矛盾を、「蜘蛛の糸」は集約的に示している。それ以後の展開に示される、宙吊りにされる主体の悲劇もまた、この一作に既に胚胎しているのである。

〈第二章「杜子春」論〉

「杜子春」の物語の舞台となるのは〈洛陽の西の門〉だが、〈日暮れ〉と〈門〉の合体したこの境界的な時空は、芥川の構築した物語の一つの主要な類型を示している。作品の末尾に、主人公の行方として示唆された〈泰山の家〉は、天上界とも地上界ともつかぬ中間的な場所であるがゆえに、結局は主人公が仙人になる場、世間へ復帰する場のどちらにもなり得ていない。〈泰山の家〉は実質的には境界である〈西の門〉の延長と捉えられ、それを主人公の行方とした点に、越境する意欲を持ちながら境界に留り続けようとする、作者の意識が反映されているのである。

〈第三章「馬の脚」論〉

本章は、小説「馬の脚」を考察することを通じて、芥川と告白小説との関係を改めて捉えようとするものである。「馬の脚」という作品は、〈馬脚を露わす〉という熟語にちなんで構想された小説であり、その中で芥川は告白という行為を自己対象化している。作品には多様な方法が内在しており、それら実験性に富んだ小説作法の裏には、告白小説を至上とする大正文壇に対する芥川の鋭い批判が秘められているのである。

〈第四章「歯車」論〉

本章ではまず、「或ホテル」という場所を中心に、主人公を包む近代的な空間の実態を、作品に即して分析している。さらに、空間的分節構造を失い、境界なき外界から脱出しようとする「僕」の姿を〈歩く〉という身体行為によって具体的に捉え、自らの〈狂気〉を追及する「僕」の意識構造を通して、作品に貫かれている〈近代〉批判を解明している。

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