従来のマケドニア史研究においては、アレクサンドロスに関する研究に圧倒的な比重が置かれていたが、1970年代には、マケドニア王国全般に幅広い関心が向けられるようになり、以来マケドニア史研究全体がこれまでにない活況を呈している。なかでもとりわけ注目に値するのは、これまでアレクサンドロスの陰に隠れがちであったフィリポス2世に関する研究のめざましい進展である。

フィリポスについての近年の諸研究は、「史料の偏り」からくる従来のアテネ中心主義的な研究のあり方を批判し、アテネ中心主義をはなれたマケドニア側の視点に立って研究を行なうことをその共通の目標としている。しかし、これらの研究は、逆にフィリポスのアテネに対する友好姿勢を過大視する傾向に陥っており、なかには、フィリポスのギリシアにおける目標をフィリポスとアテネによる「二元覇権(dualhegemony)」の達成と見なし、フィリポスはアテネをパートナーにするために一貫して友好的にふるまった、とする解釈も見られる。こうした見解は、フィリポスの計画におけるアテネの中心的役割を認めようとする態度であり、やはりアテネ中心主義の現われであると思われる。

こうした傾向は、前346年にフィリポスとアテネの間で締結された「フィロクラテスの和約」をめぐって最も明確に打ち出されており、近年の諸研究は、このフィロクラテスの和約をフィリポスのアテネに対する友好姿勢を具現するものとして、フィリポスの計画の中に非常に大きく位置づけている。本稿では、まずこのフィロクラテスの和約を中心とする、治世を通じてのフィリポスとアテネの関係を考察し、フィリポスの対アテネ友好姿勢を強調するこれらの研究のアテネ中心主義的傾向に修正を加えることを第一の目標とした(第1章)。そのうえで、常にフィリポスとアテネの関係を軸としてとらえられがちなフィリポスとギリシア諸地域の関わりを史料に即して解明し、カイロネイアの戦いに至るまでのフィリポスのギリシア征服の全体像の再構築を試みた(第2章)。また、近年の研究には、ギリシア征服に対するフィリポスの関心のうすさを強調する傾向も見られ、フィリポスは初めからペルシア遠征を指向しており、貧しいギリシアには関心がなかった、とする見解がある。そこで、フィリポスのペルシア遠征計画の動機や起源という問題を考察し(第3章)、フィリポスが初めからペルシア遠征を指向していたというこうした近年の見解にも検討を加えた。

つまり本稿の目標は、フィリポスとアテネの関係をフィリポスのギリシア征服の計画の中に正しく位置づけ、近年の諸研究において強調されるフィリポスの対アテネ友好姿勢の存否を問うこと、そしてそのうえで、フィリポスのギリシア諸地域における勢力浸透の過程を解明し、アテネ中心主義的な見方をはなれたフィリポスのギリシア征服の全体像を再構築することである。

本稿では、結論として、フィリポスのアテネに対する友好姿勢を過大視し、フィリポスの計画におけるアテネの中心的役割を強調する近年の諸研究には修正を加える必要があることフィリポスのギリシア征服の過程は、アテネとの関係の展開の過程と同一ではなく、他のより重要ないくつかの道が相互に絡み合って進行していく過程であったことを論じた。勿論、そうした過程においてアテネが果たした役割が皆無であったと言うわけではないが、アテネはあくまでもギリシア世界におけるフィリポスの数多くの目標のひとつにすぎなかったのであり、近年の諸研究の言うようなフィリポスの計画におけるアテネの中心的役割や、フィリポスとアテネの「二元覇権」計画といったものは見出せないのである。フィリポスのギリシア征服の過程は、アテネの制圧或いはアテネとの協力の過程と同一視されるべきものではなく、フィリポスがギリシア世界の覇者となるための過程は、実に多くの道を有していたのである。こうした結論は、フィリポスのギリシア征服についてのアテネ中心主義的な歴史像の修正を迫るものと言えよう。