フェッラーラ君主ボルソ・デステ(在位1450~1471)が生涯のあらゆる局面において称揚されることを好んだのはつとに知られるところである。ボルソがいささか俗物めいた人物であったことも確かではあるが、彼が称揚を受けることを好んだことの理由はただそれのみというわけではなかったということを、トリスターノやローゼンバーグらによる近年の歴史学研究が明らかにしている。庶子であったボルソのフェッラーラ君主への就任は、先々代君主ニコロ3世の遺言に背くものであったが、ボルソはこの不法な権力継承という状況下にあって、その治世を安定させるためにいくつかの自らのイメージを作り出そうとし、そのイメージに即した称揚を受けるよう自らを演出していたと考えられるのである。ボルソにとって、称揚を受けるということは、彼が形作ろうとした君主としての自らのイメージを普及させていく手段でもあった。

そのイメージとは、自分が正当なる継承者であるというイメージ、ニコロ3世の遺言に反して自分を君主に選出してくれたフェッラーラ市民に対しては親密かつ有益な君主であるというイメージ、そしてニコロの遺言に執着する親ニコロ派貴族に対しては、ボルソがニコロの遺言を尊重する、すなわち家督をニコロの嫡子である弟エルコレに譲るという意志を表明するイメージなどである。彼は以上のようなイメージ通りの君主であることを広く知らしめようとしたことであろうし、そうであればこそ彼がパトロネイジした美術作品においても彼はそのように称揚されているのである。

本論文では、今日フェッラーラに残る15世紀後半の大壁画の唯一の作例であるスキファノイア宮殿「12カ月の間」装飾壁画(1470)を、以上に述べた「家督の相続の不法性を克服するためのイメージ作り」そしてそのイメージの普及のための「君主称揚のレトリック」という枠組みから検討する。

第1章では「君主の美徳」について論じる。ボルソ・デステは、彼の家督相続の違法性に由来する脅威を克服するために、伝統的な「君主の美徳」のリストの中から遵守すべき美徳を選択した上でそれらを実行したが、スキファノイア壁画においてそれらの美徳すべてが、様々の方法によって視覚化されているのである。

第2章ではボルソ・デステがインプレーザ(ルネサンス期に広く用いられた個人的な紋章)を用いていかなるイメージを伝えようとしたかを考察する。ボルソは自らのインプレーザのモチーフとして、彼がフェッラーラ市民のために行った公共事業(ポー河の治水干拓)を暗示するモチーフおよびその事業により可能となった産業の振興を直接的に想起させうるモチーフを選択し、それらをスキファノイア壁画をはじめ、身辺あらゆるところに表現させることにより、市民にとって有益な君主としての自らのイメージを作りだそうとしたのである。

第3章では、スキファノイア壁画「12月」上段の主題である≪ウェスタの凱旋≫が、ペトラルカの『勝利』に基づく≪純潔の勝利≫に見立てられていることを明らかにし、ボルソの美徳「純潔」によってつつがなく弟エルコレに家督が委譲され、エステ家が未来においても存続繁栄するというメッセージがこの場面に与えられていると考えられることを指摘する。

第4章では、スキファノイア壁画南壁面右端に当時ローマのサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に存在した所謂「サン・ロレンツォのフリーズ」が引用されていることを指摘し、その事実よりこの場面が、ボルソ・デステが1471年4月14日ローマにおいて教皇より初代フェッラーラ公爵に任ぜられた式典のクライマックスたる「金の薔薇」の授与の様子を表していると考えられることを論ずる。

第5章では、スキファノイア壁画「12月」上段に描かれた水瓶と「9月」上段に描かれた盾の典拠、およびそれらのモチーフがロームルスの受胎および誕生を暗示すべきものであることを指摘し、フェッラーラ公国の創始者ボルソ・デステをローマの建設者ロームルスに比して称揚するという図像プログラムが仕組まれていたことを明らかにする。

なお、附録1では、ボルソ・デステに仕えた宮廷画家コスメ・トゥーラの制作になるフェッラーラ大聖堂オルガン扉絵外側≪聖ゲオルギウスと王女≫の図像解釈を通じて、異教=トルコに対する「キリストの騎士milesChristi(あるいは、キリスト教の騎士mileschristianis)」としての君主称揚の手法について考察し、また附録2では、「壁画制作の経緯」、「アトリビューションの問題」、そして本論中で部分的にしか扱うことのできなかった「上段と中段のイコノグラフィー」に関する諸研究を筆者の見解も交えつつ紹介し、本論の理解に供することとする。