本稿は、近世の日本において最大の城下町である江戸をとりあげ、主に二つの課題から、その社会構造の一端を明らかにすることをめざすものである。

まず第一部では町人地をとりあげ、I「十組問屋仲間」商人以外の商人の成長過程の特質や都市社会における活動、II家守の家に注目した「家守の町中」の解体過程の検討を行った。

Iは、従来の流通史が扱ってきた商人、あるいは都市史が扱ってきた都市の社会的権力である商人・高利貸資本が、いずれも「他国住」の「問屋」で、かつ一七世紀後半に江戸に進出して荷受問屋を圧倒して成長した「十組問屋仲間」商人という特定の商人に集中してきたことへの批判である。本稿では、「江戸住」(非他国住)で場末で仲買・小売を本業とする大商人高崎屋(酒商)を検討し、1比較的安価な商品(地廻り商品、東海の酒)を仕入れるとともに、無銘柄の酒を自己のブランドとして宣伝し、樽売りとともに近辺の町や武家奉公人に量り売りを行う、といった経営によって成長したこと、2商家同族団の形成、これに伴う信仰活動や地域的な文化活動について他国住商人との違いを確認できることを指摘した。また、一八世紀末に江戸に積極的に進出した関東の豪商として下総関宿の喜多村家をとりあげ、特に町屋敷集積の方針を検討し、1家質、他の株(湯屋株)の集積、本国での土地集積と勘案した上で町屋敷集積が行われていること、2その背景には、不在地主に対する町共同体と村共同体の対応の差異があったことを明らかにした。こうした非問屋、非他国住の多様な大商人の個別研究が、今後の都市史・流通史研究には不可欠と考える。

IIでは、町政に関心をもたず、強固な家守支配も志向しなかった不在地主の論理が、家守職の家産化意識をもたらし、また町は家守のいわば仲間的組織として、その相互の職を守ったことを明らかにした。その上で、家守が敷金という形で地主と個別的な関係を結んでいくことによって、家守株売買がすすみ、ついには不在家守・下家守という存在をもたらす可能性を指摘した。町政の担い手という公的な存在である家守の場合、こうした家守の家の利害追求は、結局のところ、不在家守、下家守という形でしか体現できず、その枠組みを解体するには至らなかった。しかし、筆者は集団の内在的な解体の可能性として、「家」の利害追求の動向に注目したい。こうした関心から、補論二では、越後の上農層をとりあげ、近世においては成員においてすら「家」意識は所与のものではなかったことを指摘した。集団化に結実しない、人の行動というものにも注目すべきなのではないかと考える。

つづいて第二部では、武家地をとりあげ、町人や寺社などの外部社会と様々な接点を持っていた点を明らかにすることで、都市社会に武家地を位置づけることをめざした。武家地が都市史研究の対象となったのは近年のことであり、近郊農村論、そして近世遺跡の発掘を背景とした武家地の空間の実態論という一九八〇年代後半の二つの動向によって、「村の中の武家屋敷」か、個別の武家屋敷の変遷史に研究が集中し、近郊農村では武家屋敷と外部社会との関係が地域論として議論されているのに対して、町人地と接するいわば本来の武家地については、外部社会との関係が全く検討されないという奇妙な研究状況がおきている。

この点で、吉田伸之氏が分節的構造をとる巨大城下町の「都市-内-社会」として提唱した、藩邸が磁界となって形成される「藩邸社会」というとらえ方は卓見である。しかし、氏は町人地社会との関係は寺院社会とは異なって個別的・契約的・対自的であり、一つの固有な領域を形成することはなかったとして、本格的な検討は行っていない。こうした出入関係のあり方は大店でも同様であり、近世の城下町の社会を理解するには、武家屋敷と町人社会、寺社社会との諸関係を検討することは不可欠である。本稿では、I町人地・寺社地・武家地の場末・近接農村への具体的な拡大過程、II武家方辻番を素材とした都市居住者としての役の構造と運営の実態、III大名家の食生活や作事などの消費とこれを支えた商人・職人の具体相、IV大名家と江戸の寺社の関係、V武家屋敷の神仏の公開をめぐる藩邸と都市社会の関係、の五点を検討した。ここで明らかにした事実を全て提示することはできないが、居住者としての役が地縁的なものだったこと、出入りの寺社には近辺の寺社がみとめられること、出入商人・職人が近辺に分布していることや、神仏の公開をめぐる近辺の出入商人の助成などから、武家屋敷を核とした社会に地域的なまとまりがあったことを提示しえた。本稿は藩邸と外部社会の諸関係の基礎的研究であり、今後は旗本・御家人層、あるいは他城下町との比較検討が必要である。また、商人・職人や寺社の出入りの権利・テリトリーの問題等が課題として残されている。