本論文は鎌倉時代の肖像画に関する問題を扱った二つの部分から構成されている。一つは、高山寺が所蔵する「明恵上人樹上坐禅像」を取り上げたものであり、もう一つは藤原隆信が創始し、子息の信実が発展させた「似絵」という現象について考察したものである。

肖像画を扱う視角には像主の認定という基礎的な作業から始まって、機能論や絵画史料論などいくつかのものがあろう。しかし本論文はいわゆる肖像画論としての視角から作品を扱ったものではない。本論文では、基本的に鎌倉時代肖像画における中国画受容、とりわけ宋画受容の問題という観点から議論を展開している。その際中心となるのは、様式的側面における宋画受容の様態の探求である。作品の主題や意味内容の問題、さらには社会的機能の問題にまで展開する場合でも、様式面における結論を前提として出発するように努めた。確かに、中心に据えた研究の観点が宋画受容の様態の分析というものであってみれば、こうした研究手法は、肖像画という分野の特性とは関わりなく存在しうるものであり、肖像画でなければ出来ない研究と言うわけではない。

しかし鎌倉時代という時代に優れた興味深い肖像画が生み出されたのもまた事実であり、そのことは肖像画がこの時代の絵画の動向をリードする主要な役割を担った分野であったことを示している。従って、肖像画を分析することで鎌倉時代の絵画の主要な動向が見えてくるはずであり、ここで肖像画を主要な研究対象としたのもそのような理由からである。

第一部は「『明恵上人樹上坐禅像』の研究」である。この作品は、京都栂尾の高山寺に所蔵されるもので、同じ高山寺に所蔵される「華厳縁起絵巻」と並び、鎌倉時代初頭に宋画を受容したとされる特異な画風を展開した同寺の絵画を代表するものである。

第一部はすべてで四章から成り、第一章において「樹上坐禅像」の画面構成法について検討し、画面の中心に巨大樹を置くこと、対角線を構成の基準とすること、同形モチーフの繰り返しにより空間の奥行きを作り出すことという特徴の共通性から、この作品が南宋の山水人物画の構成法を受容していることを指摘した。第二章では引き続き彩色法と筆線形式の特徴について検討を加え、濃淡の階調を利用した水墨風の彩色と、藍と代赭を基本とした色感は、やはり南宋の山水人物画の表現を摂取していることを指摘した。また、筆線形式については、白衣観音など宋仏画の転写の訓練を通じて水墨的筆致が伝統的な日本の筆線形式の中に取り込まれていることを確認した。第三章では、「樹上坐禅像」の図像と主題について検討し、この作品が「禅定比丘図像」という伝統的な図像を基本に、明恵を平安末鎌倉初期に理想とされた遁世僧として表象しようとしたもであることを明らかにした。第四章では「樹上坐禅像」において宋画の様式が要求された内的な必然性について考察し、宋画風が異国性という意味を持ち、これにより中国からインドに至る異土のイメージを喚起することで、明恵が宗教的原点であるインドの釈迦に近い存在であることを示そうとしたと結論づけた。最後に「結び」において「樹上坐禅像」が使用された現場における機能性の問題についてこれまでの議論を踏まえて論じた。

第二部は、寺院と並行して文化創造の主要な場となっていた宮廷における肖像画、即ち「似絵の研究」である。全体で、六章から成り、第一章では『玉葉』に記された最勝光院御所障子絵の記事について新旧の解釈を止揚する形で新たな解釈を行った。第二章では、似絵の主要な画家である藤原隆信と信実の画風について様式的検討を行った。検討対象は「随身庭騎絵巻」であり、結果として似絵には、筆線を積み重ねること、画面に引いた線をそのまま仕上げ線として提示することが前提とされていること、作り絵の細線重ね描きを根源としていることという特色があることを導き出した。これを承けて第三章において中国、元時代の「小像」と呼ばれる白描文人肖像画に同様の様式的特徴が存在することを認め、元の「小像」が北宋後期の李公麟の時代に端を発することを推定した上で、似絵が中国の白描文人肖像画の様式と文人文化という社会的価値を摂取したことを推定した。第四章では、似絵が家業としての独占的専門性を持つことを前提に、他の家業の成立過程と比較しつつ、文人文化としての背景が家業としての独自の価値を付加していたことを分析した。第五章では、平安末鎌倉初期の日宋交流の状況を概観して、北宋の文人文化が輸入される可能性について探った。第六章では、信実の個人様式の変遷の原因について考察するとともに、似絵の活動を通してもたらされた文人的白描画の価値概念が十三世紀後半の白描物語絵の制作に少なからぬ刺激を与えた点について論じた。