芳翠・清輝・天心における西洋 −受容と交流の諸問題−

高階 絵里加

本論文は、明治十年代から三十年代にかけての日本の美術界において、西洋との出会いという点で重要な役割を果たした三人の芸術家である山本芳翠、黒田清輝、岡倉天心に焦点を当て、その西洋理解を受容と交流の側面から明らかにしようとする。

第一章と第二章は、明治十一年より足掛け十年にわたった山本芳翠の滞仏期間の活動について、作品の制作やパリの芸術家・文学者サークルとの交流を軸に、未発表の作品・文献を用いて再現し、当時のフランスにおけるジャポニスムの情況についても考察する。芳翠は一八八五年の個展や席画や料理などを通じて、生きた日本の芸術をフランスにおいて演じ披露してみせることによって、ジャポニスムの流行と世紀末ヨーロッパを席巻した総合芸術の概念の浸透に、少なからぬ役割を果たした。第一章では同時代資料をもとに芳翠のパリ個展を再現し、『蜻蛉集』の反響を資料とともに紹介し、ジュディット・ゴーティエの別荘庭園離れの壁画について、現地調査の結果を紹介・分析する。第二章ではフランスの眼からみた日本を主に扱い、芳翠が挿絵を残している雑誌や詩集などの中の芳翠作品を紹介・分析するとともに、他の資料もあわせて一八八〇年代のフランスにおける「日本」のイメージを探る。巻末には未公刊資料としてパリ時代の山本芳翠に関する手稿および新聞・雑誌記事を含む未発表一時資料の翻訳・訳注を付した。

第三章、第四章及び第五章では、芳翠帰国後の代表作である《浦島》、沖縄を描いた一連の作品そして《十二支》について、それぞれ同時代資料と作品調査にもとづき、分析・検討する。第三章では《浦島》について、芳翠が留学中に接したフランス象徴派芸術との関連から考え、前例のない浦島の姿やポーズには日本神話やギリシア神話の主人公が、また遠方に浮かぶ竜宮には幻影の都市のイメージが、それぞれ重ねられていることを確認する。《浦島》はポーやワグナーやモローに通じる象徴性を持つと同時に、「異国から帰郷者」という当時きわめてアクチュアルであった問題を提示していた。第四章では明治二十年の芳翠の沖縄訪問について、やはり沖縄に同行した漢詩人森槐南の記録を検討し、公的記録がなくこれまで確認されていなかった芳翠の沖縄訪問の事実を裏付ける。また十五世紀から江戸時代までの日本における琉球八景のイメージの伝統と、さらには北斎の挿絵によって庶民に親しまれた『椿説弓張月』の為朝伝説も、芳翠に影響を与えたと考えうる。最後に、「琉球=竜宮」の連想の伝統や、海のイメージの重要性などから、《浦島》が芳翠の琉球体験を反映していることを確認する。第五章では《十二支》について、注文と制作の経緯を明らかにする。十二支それぞれに因む物語や神話の一場面を取り出し、女性像を中心とした歴史画に仕立てた芳翠は、留学中に学んだ十九世紀フランスのアカデミックな手法に、江戸の浮世絵や文字遊びの伝統を組み合わせ、前例のない斬新さによって注目を集めた。

第六章では、黒田清輝による《智感情》の主題と成立について、岡倉天心の明治二十八年ごろのメモに「智、感、情」の文字が残されていることから、従来は明治二十年代後半の日本画と西洋画の領袖として対立していたとされてきた黒田と天心は、実際にはともに西洋の本質をよく理解していたが故に、日本美術界の指導者として、パリ万博出品にあたり、西欧に対する日本美術の顔をどのようにつくるかについて、真剣な検討を重ねていたことを明らかにする。西洋絵画の正当な伝統にのっとりながらも日本を代表するような絵画を生み出すというきわめて困難な問題への二人の答えが、アカデミックな技法による日本女性の裸体像を仏画を思わせる金地背景にエキゾチスム抜きに配置した《智感情》であり、それはまた、中国に代表される哲学と、インドに代表される宗教(道徳)が、日本に代表される芸術に現れるというアジア文化観をもつ天心の精神の、黒田による肖像画ともいえる作品となったのである。巻末に未公刊資料として、本章で触れた天心によるボルドー博覧会への東京美術学校紹介の文と、黒田による仏語の日本絵画論の訳注を添えた。

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