エトムント・フッサール(EdmundHusserl)(1859-1938)は、「学の究極的基礎づけ」、「認識の絶対的基礎づけ」をめざし、自然的態度における存在定立を括弧に入れ、必当然的明証を有する超越論的主観性へと遡行する超越論的還元の方法を見出し、超越論的現象学を確立した。だが、早くから超越論的現象学は、客観的世界の構成の問題を解決しえないという批判をうけ、これに反論すべくフッサールは他者と相互主観性(Intersubjektivitat)の理論を展開する。そして、この理論を主題に生前唯一刊行された、『デカルト的省察』「第5省察」における他者構成理論を批判的に検討することから本論文の研究を開始する。

〈第1部〉
「第5省察」の他者構成論についての批判的検討によって、本来の超越論的他者、すなわち、超越論的自我とともに等根源的に、共現在的に機能して、世界と事物を構成する他なる自我を構成しえないことが解明される(第1章)。したがって、次に、「第5省察」に関する批判的検討の成果を踏まえて、超越論的現象学の枠組みにとどまりつつも、後期フッサール現象学に焦点を絞り、本来の超越論的相互主観性の全体像を明らかにする。
まず、相互主観性と時間性との連関において、超越論的自我の究極の形式である「生き生きした現在」(lebendigeGegenwart)について研究することにより、受動的発生の原基盤である「生き生きした現在」からの自己時間化における超越論的自我と超越論的他者の共発生が解明される(第2章)。
次に、相互主観性と身体性の連関において、身体がもつ二重性を手がかりに、超越論的自我の自己身体構成の不完全さを解明する。そして、完全な自己身体構成のためには超越論的他者による構成と自-他の共在が不可欠であることを示す(第3章)。
次に、相互主観性と歴史性の連関で、まず超越論的現象学において歴史的省察を可能にする要因を探る。その後『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』における目的論的歴史考察を分析、最晩年のフッサールにとっての歴史的相互主観性の意味を示す(第4章)。
最後に、相互主観性と言語との関係を考察することにより、言語共同体のコミュニケーションにより、学的記述を可能にする実践的共同性が成立することを解明する(第5章)。

〈第2部〉
超越論的現象学の根本動機の一つは「学の究極的基礎づけ」であり、相互主観性論もそのための方法である。よって、相互主観性論をテーマとする本論文にとって、超越論的現象学における「学の究極的基礎づけ」の可能性を考究することは必須の課題である。
まず、「学の究極的基礎づけ」に関するフッサールの構想を概観する。超越論的還元により、「哲学の自己基礎づけ」が可能であり、さらに、生活世界論を考察することで「哲学による諸学の基礎づけ」が可能になると考えられていたことを示す(第1章)。
次に、「哲学による諸学の基礎づけ」との連関で、「客観性」理解について考察する。『論理学研究』第1巻では、客観性の自体存在が想定されている。さらに、対象とその所与の「相関の原理」が発見された後も、同様の考えがあるが、やがて『幾何学の起源』のように、客観性を言語共同体による歴史的形成体と考えるるようになる変化を指摘する(第2章)。
次に、フッサール現象学における「学の究極的基礎づけ」の不可能性を示す。諸学は生活世界に基礎をもつ。だが、生活世界は超越論的自我と自我の経験の最終的根拠ではなく、最終的根拠は「生き生きした現在」であり、超越論的自我は「生き生きした現在」を反省によって把握できず、「学の究極的基礎づけ」が不可能であることを示す(第3章)。
さらに、人間の学的知の新たな「基礎づけ」の可能性を探求する。第一に、「根源的な自然の共通性」を解明する。第二には、こうした自体を記述する現象学的記述の在り方を問い、人間の経験と知の根源にある事態を歴史性を帯びた言語共同体によって記述しうることを、「学の究極的基礎づけ」とは別の新たな「基礎づけ」として提起する(第4章)。
最後に、新たな「基礎づけ」は相対主義であるという批判に対して反論する。フッサールの主張する「唯一の世界」の内実を解明するため、「故郷世界」と「異他世界」をめぐる探求を整理し、新たな高次の故郷世界が生成する可能性を示す。そして、古代ギリシアにおいて哲学の開始とともに原創設された「世界全体」の理念こそが「唯一の世界」の内実であり、人間は故郷世界と異他世界の相互理解と相互対立の無限の運動により、テロスとしての「唯一の世界」をめざすことがわかる。ここから生活世界を活動の場とする歴史的な言語共同体の記述はつねに異他的なものとの相互理解をめざすものであり、相対主義という批判は当たらないことを示す(第5章)。