本論は、漱石の初期作品である『草枕』に注目し、『三四郎』以降の近代小説の開始に先立って、漱石が、詩歌の多様なジャンルの可能性と不可能性にいかに対峙していたのか、また、それらが、どう時代文学の中で、いかに位置づけられるかを探って行こうとするものである。

『草枕』を活かしている言葉、精神は、俳諧的なものである。この自身の言葉、精神に帰ることは、漱石が、改めて子規的な行き方に帰っていたことを意味している。子規が、漢詩、俳句から出発して、短歌、新体詩、小説へとあらゆる文学のジャンルに進んで行こうとしていたのに対し、『草枕』もまた、漢詩、俳句、和歌、英詩、俗謡等をちりばめつつ、その中で、胸中の絵を問題とすることで、詩歌を総合的に捉え直す意図を持っていたのである。しかし、胸中の絵は、ついに画工の言葉によっては描かれない。それは西欧の世紀末芸術の影響下にあり、象徴主義的な境位をそこに呼び寄せようとするものでもあった。同時代の新体詩の世界にも最も近いところにあるものでもあり、そこに画工の葛藤が生じている。『草枕』は、その葛藤のありようを、自身の詩の問題として、また、時代の詩の問題として、客観化して行くものでもあったと考えられるのである。(この点について蒲原有明、上田敏、北村透谷の詩業との比較を試みた。)特にそこで問題となるのは、象徴主義の背景にある形而上の問題である。神の存在は画工は認めない。また、それを絵の気韻という形で、ある〈気分〉の形容として捉え直すならば、画工の言葉が、言文一致による統一の以前にあって、歴史的連想を多く含むものであったことが注意されるが、しかし、それも、『草枕』にあっては常に日常の言語によって取って変わられる。画工は、その言葉の「切れ間」に自覚的でもあり、多文体が、言文一致に取って変わられようとする時代にあって、そこに何が起きていたかが凝視されようともしているのである。(この点については、未明や独歩の「風景の発見」(柄谷行人氏)に対する漱石の評を参照しつつ論じた。)また、伝説の持つ力、その世界観も、基本的に写生的地平に立つ『草枕』にあっては、十全には有効に働き得ない。(この点については、鏡花の『銀短冊』との比較を試みた。)絵(=詩)において超越性をいかに保持するかが、課題の一つとなっているのであるが、その根拠が見出されぬまま、画工は、日露戦争の進行する現実の都会へと再び帰って行かなければならなかったのである。こうした画工の描いた軌跡は、漱石の詩のありようを映し出すものであると同時に、また、漱石の同時代の詩に対する把握を示すものでもあり、近代を描いて行く『三四郎』以降の小説も、ここで見極められた事柄が、基本となっていると考えている。

『草枕』の人間関係については、これが紅葉文学の問題とごく近いところにあったことを指摘した。また、日露戦争については、写生文が持ち得た可能性ないし限界と同時に考えられるものであることを指摘した。「趣味の遺伝」も同じであり、漱石は、この二作を日露戦争と同時代に設定することによって、小説において、写生文の可能性を、内側から確かめて行こうとしていたと考えている。

第二章は、『草枕』の葛藤が、ごく小規模な形で現れた作品として、『一夜』を論じた。第三章は、子規と漱石の文学的交流のありようを、特にアイデアとレトリックの論争に注目して論じたものであり、漱石が、子規の写生という方法に対して、形而上の問題にこだわり続けていたこと、また、時に狂気に近いものとも言われる内心を見続けようとしてもいたことを指摘した。形而上の問題は、『文学論』執筆の時点では、自身の理想の反映という形で捉え直されることになっているが、しかし、この理想の根拠すら見出されないという状態にあったと思われることを、『文芸の哲学的基礎』と西田幾太郎の『善の研究』を比較しつつ考察し、そこから改めて、時代の理想の空白を描き、またその時代の変化を構成によって示す以降の小説が始まっていたことを指摘した。詩をめぐる矛盾、葛藤は、『三四郎』以降、一度、歴史的状況の問題として解消される。しかし、知的に時代の状況が知られたとしても、人生の問題はいささかも片付かない。漱石の小説にあっては、詩を見出そうとしながら、それを確信できない、また、表現し得ない人物が繰り返し現れることになり、個の存在の問題が突如立ち上がってくることになるのである。『道草』では、私的な日常を描く立場に一度帰りながら、人生の問題に片付くものなどないという言葉が最後に吐かれなければならず、徹底した相対界としてある『明暗』の人間模様はその死によって中絶されることになる。『草枕』にあった、詩をめぐる葛藤、また、形而上性の問題は、漱石文学を貫く重要な問題の一つとしてあったと考えている。