新しき村から「大東亜戦争」へ −周作人と武者小路実篤との比較研究−

董 炳月

近代中国を代表する文学者の周作人は明治末の日本に留学して、日本人女性羽太信子を妻にした。こうして、彼は文学、思想、人生において日本と密接な関わりを結ぶに至る。なかでも、彼が最も共感を抱いていた日本人の近代作家は白樺派の武者小路実篤である。1918年実篤は新しき村を創始し、周作人はこれに共鳴して中国で「新村提唱」をした。日中戦争期に至ると、二人は共に戦争に巻き込まれ、両者の関係にも暗い影を投じられてゆく。本論は儒家文化との関わりを論述の切り口として、新しき村時代から「大東亜戦争」までの二人の文学者の交流と影響関係とを中心に、比較研究を試みたい。

第一部は新しき村について論じる。今まで、武者小路実篤の新しき村はトルストイやキリスト教の影響下において認識されてきたが、1919年前後村における武者小路実篤の『論語』学習から考えれば、「新しき村の精神」は東洋思想の原点である儒教思想の精神と密接な関係を持っている。周作人の提唱によって日本の新しき村運動は五四期の中国にも影響を与えたが、周作人が提唱した“新村”は実篤の新しき村とは異なり、道徳・文学的なものであった。実篤の新しき村に対しても、周作人は単なる受け身ではなく、“逆影響”があったのである。日本人意識が強い実篤より、周作人はさらに徹底的な人類主義者であった。1925年前後、周作人も実篤もそれぞれの形で“離村”したが、その“離村”は儒家文化固有の「内聖」と「外王」の衝突として解釈できる。

第二部は女性・愛欲に関する問題である。「愛欲」という言葉は実篤の文学のキー・ワードである。実篤としては新しき村運動は女性解放運動でもある。周作人の場合、“日本”は彼の性観念を形作った一方で、性も周作人が日本文化を読む時の重要なポイントであった。世俗傾向が強い兼好法師や一休などの日本の僧侶は周作人「釈家」(釈迦牟尼を信ずる者)を肯定する際の根拠となっている。彼が実篤に接する際に女性問題も重要な接点の一つとなっていた。

第三部は日中戦争期における周作人と実篤を論じる。1936年欧州旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆくが、彼にとっては「大東亜戦争」と日中戦争とは別物である。彼は中国を東洋の裏切り者と看做すと同時に日本が中国を救っていると考えた。彼は“ロンドン・パリ---北京・東京”という枠組みを作り、日本と中国を共に“東洋”の枠の中に収め、東洋人としての尊厳を求めている。1943年春の中国旅行で彼は日本軍占領下の中国の実態を認識し、その“日中一体観”も崩れ始めている。戦争期の周作人は日本軍の傀儡政権華北政務委員の教育督弁となったが、「儒家文化中心論」を民族主義文化観として提唱した。実篤と周作人との交友関係は戦争によって暗い影を投じられたが、周作人と片岡鉄兵との論争に際し、実篤は周作人を支持し、二人は“生命尊重”において再び一致性を得ている。

終戦後、実篤は占領軍によって公職追放されたが、それにより示されていたのは実篤と日本国との分裂ではなく、日本国との運命共同体的関係である。実篤と異なり、周作人は偽職就任した時も、「漢奸」として断罪された時も、常に“国家”から疎外されていたのである。

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