文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。

菊地 達也 教授(イスラム学研究室)

私は元々、イスラム教第二の宗派であるシーア派諸派の思想史を研究していましたが、最近ではドゥルーズ派、ヌサイル派(アラウィー派)といったシーア派諸派の中でも少数派で時として異端視される集団に注目して、彼らの聖典に見られる特徴的な思想を文献学的に研究しています。彼らが異端視されるのは、霊魂の輪廻を信じたり、特定の人物をこの世における神の現れと考える独特の教義をもつ上に、クルアーン(コーラン)と同程度かそれ以上に重視される「聖典」を保持しているからです。ドゥルーズ派の場合、そのような聖典は19世紀からアクセス可能だったのですが、研究が本格的に進むのは21世紀になってからです。一方のヌサイル派の場合、21世紀になってようやく聖典のおおよその中身が分かったばかりで、研究はほとんど進んでいません。

 
 これらの宗派の聖典を研究し始めたのは、元々宗教的マイノリティというものに関心があったからでしたが、少々背伸びをして学問的意義をひねり出すならば、イスラム教の思想文化の全体像を把握するためには、周縁的な位置にいる人々の知的営みにも目を向ける必要があるから、という理由も挙げられます。現代まで書物が残っているのは、それに価値を認め書写し続けた人々がいたからです。逆の視点から見れば、主流派の位置にいる人々が「無価値だ」「異端的だ」と考えた書物の多くは歴史の闇の中に消えていったわけです。現代につながる思想だけに注目していては、過去の知的配置図を再構成することはできません。10~11世紀に形成されたドゥルーズ派やヌサイル派の聖典には、主流派の理解とは一線を画する、クルアーンやハディース(預言者伝承)に関する独特な(時として逸脱的な)解釈が内包されています。当時における非主流的な知的伝統の痕跡がそこには読み取れるのです。
 
 自分が研究しているシーア派系少数派に限らずイスラム思想全体に関しても言えることですが、研究する上での余白が多いことはイスラム思想研究の魅力の一つであると言えるでしょう。イスラム哲学を例にとれば、かつて欧米ではイブン・ルシュド(1198年没)の死をもってイスラム哲学は役割を終えたと考えられ、その後のイスラム哲学史はあまり顧みられませんでした。しかし、イブン・スィーナー(1037年没)の影響を受けた哲学がその後も発展し続けていることが注目されるようになり、近年では12世紀以降の哲学文献が発掘され研究が盛んになってきています。イスラム思想文化圏は西欧、インド、中国の思想文化圏と拮抗するものでしょうけれど、まだ研究の対象になっていない文献や課題が無数にあり、他の思想文化圏以上に研究上の隙間が多いように思われます。ドゥルーズ派とヌサイル派の聖典研究の場合は補助的資料が少なすぎてやりにくいところもありますが、イスラム思想研究全体を見渡せば、自分が多少なりとも埋められるような余白がたくさんあってやりがいのある研究分野だと思います。
 
 
東京大学・教員紹介ページ https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/people100275.html
文学部・教員紹介ページ https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/220.html