熊木 俊朗(北海文化研究常呂実習施設)

考古学者が内輪で使う、「考古ボーイ」という言葉がある。今では死語になりつつあるようだが、少年の頃から遺跡に足繁く通い、土器や石器などを集めることに熱中してきた人を指す。私より上の世代の考古学者にはこのような少年期を過ごした人が多く、同世代にも一定数存在するが、私はそうではなかった。24歳で考古学を志すまでは歴史や考古といったものにほとんど興味を抱かずに過ごしてきたので、「進路の選択」という話題を振られると、そこに至るまでの不真面目さを思い、いつも後ろめたい気持ちになる。

 

高校まで東京で過ごしてきた私が、北海道大学への進学を希望したことに大した理由はない。一人暮らしがしてみたかったこと、当時は二次試験が国語と英語のみだったこと、それまで勉学そっちのけで現を抜かしていた吹奏楽を延長できる場として学生オーケストラがあったこと、くらいしか思い当たる節がない。そもそも当時は、「勉強」とは最小の努力でよい評価点を得るのが賢いやり方、などと考えていたように思う。今思えば全く愚かで恥ずべきことだが、北大で学部進学するまで、そのような態度で与えられた課題だけをこなしていた。学部進学時に文学部の言語学研究室を選んだ理由は、今ではよく思い出せない。

 

己の甘さを思い知ったのは、進学した言語学研究室で、宮岡伯人先生の演習を受講した時であった。この演習では博士課程の院生から学部3年生まで研究室の学生全員が出席し、サピアなどの英語論文を講読するのだが、先生の質問は大変厳しく、博士課程の院生でも答えに窮して場が凍り付くような局面を、何度も目の当たりにした。あまりに恐ろしいので、それまでで最大級の努力をして臨んだのだが、頓珍漢な受け答えしかできず、それをフォローする先輩方にも迷惑をかけ続けた。初めて学問に触れ、その厳しさを垣間見た瞬間であった。何とか卒業までは漕ぎ着けたが、大学院に進むなどは論外で、この厳しい世界に自分の入る余地があるとは全く思えなかった。このような洗礼を受けた後もまだオーケストラに入り浸るという不遜な学生であったから、当時の研究室関係者にも、将来、私が研究者になると考えた人は誰もいなかっただろうと思う。

 

就職に向けても何か準備をしていたわけではなかったが、世はまだバブル景気の末期で、労せずして製造業の会社に入社できた。しかし、将来を見据えた準備を怠ってきた人間が通用するほど会社は甘くなく、程なく、無力で怠惰な自分という現実と、このままでは何者にもなれないと言う焦りの間で自己嫌悪する悪循環に陥ってしまった。しかし何故そこで、それまで縁もゆかりもなかった考古学を学び直すという「選択」をしたのか、はっきりとした理由は思い出せない。当時、地方自治体の埋蔵文化財担当者が不足していることは言われていて、考古学を学べばその仕事に就けるのでは、という甘い考えはあった。何でもいいからその場から逃げ出したかったというのが本音だったかもしれない。結局、わずか一年半で当時働いていた大阪から東京の実家に戻った。一人で考古学を学び始めると、北大の言語で多少なりとも鍛えられた経験が身についていたことを実感したが、学恩への感謝と同時に、失った時間への後悔が胸に重くのしかかるのを感じた。

 

翌春、明治大学の3年次に学士入学した。甘い考えを持った思い上がりとして冷ややかに見られるのではと危惧したが、明治大学の諸先生や同期は、本当に暖かく私を迎え入れてくれた。そこには、「最小の努力でよい評価点を得る」などという舐めた空気はなく、考古学が好きすぎる人たちが集い、激しく、真剣に、そして何より楽しく切磋琢磨する場があった。将来への焦りや不安はいつの間にか消えていた。思えば、現在の努力が自分の思い描く将来像に直結するという実感を得たのは、これが初めてだったように思う。

 

卒論で北海道をテーマに選び、常呂実習施設の存在も知っていたので、東大の大学院に進学した。東大では、個人で参加した利尻島や礼文島での発掘、常呂での発掘実習などで修士課程の二年間は瞬く間に過ぎた。修論作成が佳境を迎え、道内の自治体あたりに就職先はないだろうかと考えていた矢先、常呂の助手に就任が決まった。話をいただいたときは、嬉しさよりも、未熟な自分につとまるのかという不安の方が大きかった。その時はまさか20年以上も常呂で過ごすことになるとは思わなかったが、幸運なことに、助手に就任した後は「選択」と呼べるような転機もなく、今に至っている。

 

「選択」というのは、にっちもさっちもいかなくなったときにやむなく強いられるものであって、そこまで追い込まれないように日頃から意識して過ごすことが肝要、という話をどこかで読んだことがある。なるほど、と我が身を反省するのだが、それは理想論に過ぎないと反発したくなる気持ちもある。目標を定めて努力し、漫然と日々を送ることはしない。そうありたいと思う。でも、出遅れてしまったり、何かのきっかけで改心したりする人が再起できる機会もあってほしい、と願うのは甘い考えだろうか。私は北大の言語に進学したときには覚悟も準備も足りなかったし、考古学に出会ったのがその頃であったら、この道には残れなかったかもしれない。最近では、遊びにかまけているような学生を見ることはほとんどなくなったような気がするが、なぜ学生としてこの場にいるのかを見失っているような若者を目にしたときは、かつての自分を思い出して複雑な気持ちになる。

 

「○○になりたい」と決意するのは、何より勇気がいることである。実現できなかったら、という不安が先に立ってしまう。子供の頃にこの手の質問が苦手だったのは、己の臆病さに起因する部分が大きかったのだと、今になって思う。臆病で何も決めてこなかった私に対して、救いの手を差し伸べてくれたのが考古学であった。考古学の美点は、敷居が低く、様々なバックグラウンドを持つ人が集まっていて、懐が深いところにある。常呂で開講している考古学や博物館学の実習が、決められずに入口でためらっている人の背中を押すきっかけになれば嬉しく思う。