大宮 勘一郎(ドイツ語ドイツ文学)

少し時間を遡るだけで、ドイツ文学の「ど」でもなく、もっと遡れば文学の「ぶ」でもなく、さらに遡れば学の「が」ですらなかったのが、気がつけばいつの間にか「ドイツ文学」を専門に研究し、それどころか人に教える立場に立っている。

こう書けば、そんなことない、文学談義や学問談義で明かした夜々を忘れたか、という横槍が例えば駒場時代の友人たちなどから入りそうなのだけれど、そういうのは、当時の映画や音楽や漫画やテレビドラマやスポーツや、その他いくつもあった共通話題の尻馬に乗っていただけで、しかも文学はその中ですでにかなり優先順位を下落させていた。当時の話ぶりを思い返そうとしても、学生談話の作法通りに、しかし独自の仕方で話題に関与することで同質性と差別化、つまり「僕も同じ」と「僕は違う」の間でバランスを取ろうとふらふらしていた感覚しか甦ってこない。身も蓋もない言い方をすれば、文学はその仲間内差別化アイテムの一つだった。(筆者の場合です、念のため。)

誰もが読みそうなものと誰も読みそうにないものにちょこちょこと手を出しているうちに、徐々に後者が勝ってきたのは、心がねじけていたせいだろう。と言いつつ、本当に読者を選ぶ古典的難物には手が出なかったのは、要するに平凡な学生だったのである。それかあらぬか、文学作品が「私のために書かれている」かのような幻想を持たずにすんだのは幸いだったかもしれない。同時に、自分はゆきずりの読者でしかない、という意識は何を読んでもいまだに消えない。

進学先を決める時期が近づくと、学問分野、というのを否応なく意識させられることになる。どの分野も規範性が高く、差別化も何も、勝手なことはできなそうに見えた上、そもそも当時の筆者の歪んだ聴覚は「専門」という言葉に(また「本郷」という名前にも)、余計なことはしちゃいかん、と叱られているような、言い知れぬ不自由さを聴き取っていた。そんなわけで進学したのは教養学科のドイツ科だったが、余計なことも諦めたくなく、さしたる職業的展望もないまま、どこを選ぶか先延ばしにしているうちに、第二外国語がドイツ語だったというだけでいつの間にか選んでいたようなものだから、「私」の選択と言うのは憚られる。当時の主任先生に進学理由を問われ、「モラトリアム」と悪びれずに答えて呆れられたが、筆者にしては正直に振る舞ったので、悔い改めようがない。それでも筆者なりに結構楽しく過ごしたことは覚えている。

こんな及び腰で緩い学生がそのまま駒場の院生になり、いつしか劇的に発心して「ドイツ文学」に目覚め研究に没頭した、などと言えば嘘にしかならない。昔の優柔不断がどこでどうして、言い換えればどこでどう間違って、特定の「専門分野」の研究者であるにとどまらず、「本郷」の教師まですることになっているのか、実のところ自分でも説明がつかない。どうしてなのだろう、誰か知ってるなら教えて、と尋ねたいほどである。

でも、せっかくいただいたお題でもあるし、およそこんなことではなかっただろうか、という憶測くらいはできるかもしれない。ただ、運命的出会いや断固たる決意、悲壮な使命感といった内容にはならず、隙間だらけの話になるので、多くの皆さんの参考になるかも甚だ怪しいことを予めお断りしておく。

顧みれば筆者はかなり身勝手な性格である。面倒臭がりでもあるので、我を通して波浪を立てるのも億劫だから、気の進まないことにはなるべく近づかなかったし、せずに済ませてきた。そうして、自分でも気づかぬうちに、むしろ「しないこと」の選別をし続けてきたように思う。あそこも駄目、ここも無理そう、と最初から目を背け漂流しているうちに、なぜか進学先でも専門分野でもなかったはずのドイツ文学の岸辺に打ち上げられていた。土左衛門のようなものだ。1990年頃のことである。思いがけず長居することになったのはしかし、この地に特段魅了されたからではない。何と言っても1945年以降のドイツは脛に傷持つ存在で、1980年代後半以降のドイツ文学はいよいよ堅牢さを欠き、かなり揺れ動く大地であった。従来型の文学研究の正統性には強い疑いと批判が浴びせかけられていたし、隣接分野からの理論的浸潤にも晒されていた。おそらく筆者はそこに倒錯的な居心地の悪くなさを感じていたのである。「かねてからこう伝えられている」という伝統秩序型の議論はもはや放伐され、「誰も知らんかもしれないが、実は―」という権威宣言型と「お前たちはこう考えているかもしれないが、実は―」という権威簒奪型の議論があちこちで拮抗していて、夜見世風の賑わいがあった。こうした古典的「私」のDiadochiたちの手でご本尊はとっくに台座から降ろされ、「作品」ではなく「テクスト」と呼ばれるようになっていて、それをどう切り刻んで組み立て直すか、―古風な表現を恃めば―どう読むか、というあたりが議論の中心であった。アカデミックな制度的承認をめぐる闘争が激しくなっていたのは何となく感じていたし、そんな中で、どれか一つの読み方に身を寄せれば、何がしかの「生産」や「貢献」になるのかもしれないが、そのようにおのれを律するということが筆者にはやはりできない。おずおずと書き始めたのは、たかだか隙間を縫って「こうも読めるかもよ」くらいのことだった。その底辺をなすのは、あれ? 今何か聞こえたかも、というような錯覚ともつかない経験である。通りすがりの無縁者ながら、性能の悪い受信機のように、ドイツ語のごろごろ転がっている石のような言葉の隙間から、時折見知らぬ音声を辛うじて捉えた気がして足を止めることがある。文章から作者の声が立ちのぼる、というのとはちょっと違う、背筋がひやりとするような奇妙な感じというか、聞かなくともよいものを耳にしてしまった後ろめたさというか、筆者はこんな経験に引かれながら、結局は研究という名のもとで、右往左往の漂流を相変わらず繰り返している。ただ、「日本では―」というのは、何を論じるにしても逃げ口上のようで、付ける気がしなかった。こんな仕方が、思い返せば筆者の気質にある程度合っていたのかもしれない。それもこれも、ドイツ文学の実作・研究双方が避けがたくひた走る脱国民化・脱文脈化の遠い余波でもあるだろう。なので、やはり「私」の選択とは言えそうにない。深い思いもなく不意に立ち寄った客としては、もはや邪険にあしらわれるわけでも、面映い歓待を受けるわけでもなく、距離をその都度自覚させてくれながら付き合ってゆくことのできる相手として、ドイツ文学はそう悪くないと感じる。ドイツ文学に限らず、遠くの世界の隙間から「私」の隙間に何かがひょいと入り込んでくるような感じが文学の経験にはあると思う。こわごわ来てみれば、本郷は隙間に実に寛容で、むしろそれを大事にする風土だった。そんな隙間の経験をさらに伝え遣るような研究ができれば、それも悪くはない。「良い」と言い切ると却って私という隙間を閉ざしてしまう気がするので、あえて「悪くない」というにとどめておく。