選択の余地無し

鉄野 昌弘(国文学)

「私の選択」という文を書くということなのだが、選択が出来るということは、選択肢があるのが前提である。それは総じて、恵まれた人にあてはまることではないか。なるほど、東大文学部に奉職しているのは、だいたい才にも人柄にも恵まれた人々である。それは赴任以来五年間、常々実感していることでもある。しかし残念ながら、私にはそれが該当しない。才にも人柄にも恵まれていない者には、選択の余地が無いのである。

まず私は、幼い頃からひどく臆病であった。同年輩の子供たちはブロック塀の上をすいすい歩いて行ったが、そういうことが怖くて出来なかった。スポーツマンであった母はそれを歯痒がって、高いところから鉄棒につかまって滑り下りるような遊具の上に登らせ、下りることを命じたが、怖くて途中で止まってしまい力尽きて落ちる始末で、逆効果にしかならなかった。自然、友人も少なく、たまに連れ立って友人宅に行っても、玩具やゲームに興ずる輪から外れて、その家の書棚の本を引き出して一人読む変な子供に育った。不器用でクラスメートと同じように出来ないこともあって、ヤケになって乱暴し、小学校時代は協調性ゼロ、先生たちで私をほめる人は一人も居なかったらしい。一学年下の妹は、私の同級生に、「あんなお兄さんで可哀そう」と言われたそうである。

母の学歴信仰と、私の同調圧力への嫌悪とが一致して、小学校高学年は受験勉強に励み、どうにか武蔵中学にもぐりこんだ。自由放任のそこは、私にはアジールに思われた。選択でなく避難である。しかし入ってみると、今度は能力が無いという問題に突き当たった。武蔵には、理科棟という建物があり、一階が化学、二階が物理、三階が生物のフロアで、それぞれ実験室があり、実験助手がいる。屋上には天文台がある。数学はオリジナルの教科書があって、中一から順列・組み合わせなどが教えられた。それほど理数系の強い学校で、もともと算数に難のあった私は、およそ理数系の授業にはついて行けなくなった。

おまけに英語が始まると、語学の才能もやはり無いことが判明した。英語の先生は総じて怖く、答えられないと「スタンダップリーズ」などと言って立たせたので、臆病な私はますます苦手になった。ネイティブの先生で、私が何か答えると、常に「ロング」と言ってから何やらぺらぺらと話す人が居た。私は永い間、長すぎるという意味だと解していたが、どうも間違っているという意味だったらしい。それぐらい出来ないのである。

いくら自由でも、やはり進学校であるから、勉強が出来ないというのは致命的である。性格上、孤立するのは仕方がないとして、いつも馬鹿にされているのはかなわない。しかし文系といっても、社会科に必要な暗記力は無い。音楽とか美術の才ももちろん無い。残るのは国語以外に無いのである。

理系偏重の学校であったから、言っては何だが、国語は等閑視されていた。特に古文の先生たちの多くは大学院生で(当時は専任でもかけもちが出来た)、好きなことをやっていた。つまりは自分の専門を中高生に教えるのである。やはり文部省(当時)検定の教科書は使わないのだが、使うのは大学用のテキストとか文庫本で、原典に触れるためと称して、中一では変体仮名で『百人一首』を読み、中二で『雨月物語』、中三で『徒然草』を読んだ。協調性の無い私は隠者に憧れていて、『徒然草』は中学に入った頃から訳注付きで読んでいたので、すらすら分かる。「しろうるり」という綽名の話とか、鼎をかぶって抜けなくなった法師の話とかが好きで、兼好とは笑いのツボが合うらしい。そういう段も検定教科書ではないから授業で扱うのである。

先生たちも半分は遊びだったのだと思う。国語の先生はだいたい飲み過ぎで朝の休講が多く(先生が十五分遅れると自然休講)、先生ごとの休講率が後ろの黒板に書かれていて、ある先生は自分が二位なのを見て、負けちゃおれん、と言って帰ってしまった。テストも、およそ学力の定着を測るというより、知恵比べのようなものが多かった。高一の時、『大鏡』の試験で出た問題。「夏山繁樹」と同じ命名法の人物を一つ選べ。答「越路吹雪」。

しかしそういう先生たちが、ひとたび語り出すと、熱っぽく、無類に面白いのだった。半分は遊びでも、遊び半分ではない。自分の研究を話しているわけだから、当然と言えば当然である。無論、全部は理解できないのだが、これは世の通説とは違うのだな、ということは分った。

クラスメートたちも面白がってはいたのだが、それをまともに勉強する人は少なかった。皆、英語や数学や理科など、有用な学問に邁進していたのである。だから古文ばかりやっていると、並居る秀才たちを抑えて一番になったりするのである。好きなことだけやって一目置かれる。これは美味しい話である。もう英語や数学や理科は落第しない程度にこなして放置し、国語だけに集中して穴を埋める、という作戦に切り替えたのであった。

要するに、今言うところのオタクである。そして古文の先生たちも、同様の古文オタクであったから話が合った。そこが真のアジールだったのである。先生たちは、少しすると大学に就職して武蔵を去って行った。狭い世界であるから、学会などで今でもお会いすることがある。皆さん今や学界の重鎮だが、私を最初の弟子として可愛がって下さる。高校生の私は、彼らのようになりたいと思ったし、それしか道は無いと分ってもいた。

家が近くて、いつも通学中に話をして下さった先生は、東大で風土記の研究をしていた。そして、お前は東大に入って稲岡耕二先生に教われ、と言った。国語しか出来ないので、当然入試は失敗したが、予備校で残りの教科の誤魔化し方を習って一浪で入学。以来、『万葉集』一筋、人麻呂一筋で、飲み会でもずっと研究の話をなさる稲岡先生に引っ張られて四十年である。振り返ってやはり、どこにも選択の余地は無かったと思うのである。