学問とのめぐり会い

橋場 弦(西洋史学)

私が西洋史学を志した最初のきっかけは、高校2年の時に受けた世界史の授業であった。世界史の先生は戦後歴史学の最盛期に学んだ世代で、大塚史学の理論にしたがって世界史の流れを解き明かして下さった。歴史というものが、何年に何があったという事実の羅列ではなく、その背後にある目に見えない一つの原理によって説明されるものだということに、私は素直に感動したのである。


ところが、私が東京大学に入学した1979年は、すでにかなり以前からその戦後歴史学の枠組みが揺らいでいて、代わって「社会史」と呼ばれる新しい潮流が注目を集めていた頃であった。何も知らなかった私の頭は、当然ながら混乱した。歴史学とは一体どのような学問なのかというのが、駒場2年間の私の問題意識となった。


駒場で一番印象に残っている授業は、弓削達先生の一般教養ゼミナールである。弓削先生は、戦後歴史学の一つの到達点といってよいお仕事を、ご専門のローマ史でも、歴史学の方法論においても、残された歴史学者である。


弓削先生のゼミは人気が高く、受講希望者が殺到したので、課題のレポートを提出した学生のみ受講を許された。ローマ史に関する書物を一冊読んで、それを要約して提出するように、という課題である。私はジャン・レミ・パランクの『末期ローマ帝国』(文庫クセジュ)を読んでレポートを書いた。


翌週のゼミには20名ほどの学生が出席していたが、集めたレポートを読んだ弓削先生は、なぜか怒りだした。その訳はといえば、「ローマ史の本を読んでレポートを書けと言ったのに、辻邦生の『背教者ユリアヌス』を読んで書いた学生がこんなに多いとは、君たちいったい何を考えているんだ!」とお怒りなのである。つまり、あれは小説であって歴史学ではない、学問とはもっと厳密な実証によるものだ、というのである。


今思えば、同じ歴史小説でも辻邦生のそれは非常に上質なもので、かつ歴史と文学との本質的な差異をよくわきまえて書いたすぐれた作品である。しかし、それさえも弓削先生の厳しい目には、歴史とフィクションを混同しているものと映ったのであろう(実際『背教者ユリアヌス』には架空の人物も登場するし、ローマ人としてありえない人名も出てくる)。プロの学問とはこういうものかと感心した。漫画などの歴史ファンタジーものが流行る今の時代から見れば、隔世の感がある。


その後西洋史学に進学した私は、はじめドイツ近世史をやろうと成瀬治先生の門をたたいた。三十年戦争時代の社会史、というテーマは決めたものの、どの文献を読んでもあまりピンとこなかった。先生からは、もっとやりやすいテーマ、日本国内でもよく研究されていて邦語文献もそろっているようなテーマに変えなさいと勧められた。初学者に対するアドバイスとしては、当時の研究環境を思えば、ごく妥当なものだったと思う。だが、代わりに勧められたテーマは、どれも私には魅力的でなかった。何よりドイツ人でもない自分が、ドイツの国の歴史を探究するということの意味が、どうしても腑に落ちなかったのである。


悩んだ結果、ドイツ史には別れを告げ、1年留年して卒論テーマを選び直すことにした。ただし先生のもとでドイツ近世史を学んだことは、決して無駄ではなかったと今でも思う。政治の表層ではなく、社会の深層構造として国制というものを理解するということを、私は成瀬先生から教わった。


留年している間に、映画を見て歩く喜びを覚えた。当時東京には「池袋文芸座」「銀座並木座」「ACTミニシアター」「大井ロマン」などの名画座がたくさんあった。年に100本以上は見ていただろう。何かについてのイメージを豊かに持っているかどうかというのは、(たとえ抽象的なことがらであっても)よい論文を書くための一つの条件ではないかと思う。我田引水の結果論になるが、その意味で、映画も私の先生であった。


もう一つ、学部時代に得た貴重な宝とは、よき友人たちである。学問とは(とくに人文学の場合)一見孤独な個人作業のようにも見えるが、やはりともに勉強する仲間が必要である。西洋史学研究室は伝統的にリベラルな気風を尊重するところで、対等な人間関係が大事にされ、教員(当時は「教官」だった)・院生・学部生の間にはあまり上下関係が感じられなかった。そこで出会った学問仲間たちは、50代半ばをこえた今となっては、ますます得がたい財産である。とくに自分の専門領域を超えた、さまざまな時代地域を研究する友人たちとの交流は、自分の研究にとってよき刺激となった。


さて、戦後歴史学はもう古い、かといってブームの「社会史」も何だかよくわからない、ドイツ近世史には戻るつもりはない、という私が最終的に選んだのは、古代ギリシア史であった。理由は簡単で、学界のトレンドがどうであれ、やっぱり自分がほんとうにやりたかったのは古代ギリシアだ、ということにあるとき気づいたからである。たんに古典語の学習が難しいからと敬遠していたが、その理由は理由にならないということに思い至ったのであった。そして、これは後から知ったことだが、幸運なことに東大西洋史には、村川堅太郎先生以来の豊かな古代ギリシア史研究の蓄積があった。


留年した4年次が終わる頃、春休みを前にして、伊藤貞夫先生(現・学士院会員)に、アテナイ民主政をやりたいと相談に行った。先生はふんふんとこちらの話を聞いて下さって、それなら民主政の制度史をやりなさい、と言われた。そして関連文献をたくさん貸して下さった。それらを抱えて、私は春休みいっぱいを制度史の研究動向を調べるのに費やしたのである。


その結果、古典期アテナイの弾劾裁判(エイサンゲリア)というテーマが一番面白そうだし、研究史も豊富だということに気づいた。だが卒論のテーマ選びでは、ドイツ史で一度失敗した苦い経験がある。新学期に入ると、私はこのテーマを持って、恐る恐る伊藤先生に報告に行った。


いつも端正な表情をくずさず、最後まで話を丁寧に聞いて下さる先生は、私が一通り説明すると、静かにこう言われた。「そのテーマは、まだ日本で誰もやったことがないようですね。」


だから初学者の君にはまだ早い、他のテーマにしなさい、と言われることを、私はなかば覚悟した。だが先生は、次のようにつづけた。「だったら、君がやりなさい。」


その後35年間の研究者人生は、この言葉に終始あと押しされながら歩んできたようなものである。先生はもう忘れてしまわれたかもしれないが、私はこの時のことを、それこそ映画のワンシーンのように、大切に記憶している。