読み書きしながら、読み書きを考える

中村 雄祐(文化資源学)

「私の選択」というテーマを頂いて過去を振り返った時、20代後半、西アフリカのマリ共和国で数年間を過ごしたことは、その後の生き方に大きな影響を与えたと改めて思います。時代は1980年代後半から90年代前半。ちょうど日本がバブル経済とその崩壊を経験する時期に西アフリカと日本を往復していましたが、両者は、まあなんというか、別世界でした。

西アフリカに行ったのは大学院生として口頭伝承の研究のためでしたが、実際に彼の地で暮らしてみると、そもそも生きていくための衣食住、さらには衛生や安全の確保に多大なエネルギーを要し、何をやるにしてもまずそこを確保してから、という感じでした。もっとも私がそれを印象深く感じたのは衣食住がほぼ満たされる高度経済成長期の日本の中産階級に生まれ育ったからで、現地で生まれ育った人々にとってはそれが日常でした。どこで暮らそうと20代という時期は自分の人生や社会のあり様について当事者として否が応でも深く考え始める時期と思いますが、この経験は強烈でした。

ちなみに、私が住んでいた時期、マリには大学はなく、私が籍を置かせてもらっていたのは国立の人文系の研究所でした。研究所と言っても全部で6部屋ほどの平屋の建物で、東大文学部の大きな研究室より小規模でした。おまけに、私がいた頃は世界銀行の構造調整の影響で公務員の給与遅配が続き、生活に追われてほとんど出勤できない研究員も少なくありませんでした。本棚に並んでいた本の数も、今の私の研究室の方(電子書籍もカウントしてます)が多いぐらいではないかと思います。

そんな中、研究所の同僚も含めて人々の逞しさはまさに圧倒的で、若かった私もいろいろ揉まれているうちに次第に現地に馴染んでいきました。そして、やはり人並みに「先進国が途上国のお手本だろうか?」など、近代化が孕む問題点も考えるようになりましたが、しかしながら、日々を共にする人々の苦労を「住めば都」と開き直ることはできず、滞在調査を終える頃には開発援助や国際協力について実践的に研究したいと考えるようになりました。博士論文も口頭伝承を西アフリカの歴史変化、特に近代化の過程に位置付けて考察するという内容になり、そこでは学校教育、出版、ラジオ放送などの展開も研究対象になりました。

その後は「読み書きを実践的に考えること」、少し抽象的にいえば「認知的人工物のアクションリサーチ(action research on cognitive artifacts)」を研究課題として選び、開発援助にもかかわりつつ、今に至っています。認知的人工物とは、主に文書やPCなどいわゆる思考・表現・伝達の道具のことで、当然、文字や数字も重要ですが、表やグラフ、地図や概念図、それらのレイアウトにも注目します。また、アクションリサーチとは、実際に社会的な活動に関わりながら進める調査研究の総称です。ちょっとくどいですが、「いろんな状況で読み書きしながら、読み書きを考える」ということになります。

文学部と開発援助と聞くと、互いに遠く離れた世界という印象を抱く方も多いと思います。実際、結構、距離はあります。しかしながら、あえて突き放して考えると、いずれも同じホモサピエンスが同じ道具を使っている(あるいは使いこなそうとしている)という点では二つの読み書きは連続的であり、間の距離は考えるに値する重要な問いです。そして、文化資源学研究室は文学部でこういうテーマを追求するのにぴったりの場所だと思います。(より正確には、大学院人文社会系研究科の一専攻です)。というのも、文化資源学は諸専門分野の重要性を十分に認識した上で、研究対象をその原点、特に物のあり方まで立ち戻って考えること、そして、その活動を諸学や社会に開くことを重視しているからです。

日本、特に大学のような環境にいると、書かれた・描かれた表現の精査に集中することの重要性、そこから得られる新たな知見の価値を実感できますが、同時に、寝食を忘れて読み書きに集中できる技術的・社会的条件が整うことのありがたさもしみじみ感じます。読み書きが人にもたらす、一種、爆発的とも呼ぶべき思考の跳躍は、両者がうまくかみ合った時にこそ起きるのだと思います。このフィードバック・プロセスがデジタル・ネットワーク化しつつあるのが最近の状況ですが、近代史を振り返ると、爆発的な思考の跳躍が知識や技術の発展ばかりでなく逆に世界に災厄をもたらしてしまうという、いわば読み書きの苦い側面にも目を向けることになります。このように、読み書きを広くかつ深く捉えるのは難しいことですが、大学、特に文化資源学のような開かれたプログラムはそのような試みを支える仕組みとして有効だと思います。

大学での読み書きと国際協力の現場の読み書きの関係は、たとえていえば、設備が整った陸上競技場で行うハードル走と山野を駆け巡るオリエンテーリングのようなものかもしれません。実は両方ともたまたまゼミに来てくれた学生さんがやっていたスポーツで、私はやったことがないのですが、共通点として、どちらも走る競技だが邪魔が入る、真剣に取り組むとどちらも過酷、でもそれぞれ大きな達成感を得られることがあるようです。ただし、環境は大きく異なり、一方の経験がそのままもう一方に通用するほど甘くはない。

あえてこのたとえ話を続けると、私たちが仕事でやる読み書きの多くは、国際協力系も含めて、これら二つの極の間にあると思います。そして、私は大学の授業ではもっぱら、卒論、修論、博論など「陸上競技場のハードル走」的な読み書きを中心に据えています。もちろん、ここでもまた、論文向けの読み書きの経験がそのまま大学の外で使えるほど世の中は甘くはありません。たとえば、アメリカの大学生向けのビジネス・ライティングの教科書に、初っ端からゴチック体で「職場では誰もあなたが書いたものなど読みたいと思ってないことを肝に銘じてください。彼らが読むのは仕事に必要だからです」とありました。職場で業務連絡メールを開くときの気分を思い出して、確かに!と納得しました。ただ、「複雑な事象を筋道立ててわかりやすく」という点では共通点も多いはずで、もう少し互いの風通しを良くできないかと思いながら授業をしています。

国際協力の現場は遠い外国ですが、本郷キャンパスのすぐ外側で取り組んでいる仕事として、文化資源学会の「文化資源学を支えるテクノロジー」(文テク)という分科会があります。「読み書き」を全面に出しているわけではないですが、背景にはここに書いたような考え方があります。興味を持たれた方はぜひ覗いてみください。


文化資源学を支えるテクノロジー「文テク」
https://sites.google.com/site/bunteku2013/