市川 裕(宗教学宗教史学)

私は現在、宗教学宗教史学研究室に所属し、宗教史学、特にユダヤ教を研究の中心においているが、研究者を目指すことも含めて、自分の研究の方向がはっきり定まるまでに、ずいぶん時間がかかった。法学部の学生時代を過ぎて、人文系大学院の修士課程でも定まらず、博士課程3年を経て、やっと方向が見えてきた。そして、イスラエルのヘブライ大学へ留学して3年を過ごすうちに、タルムードというユダヤ啓示法の研究を自分の専門とするに至るのである。帰国したときには32歳であった。したがって、学部1,2年生の頃の思い出だけでは、おそらく何の参考にもならないから、18歳から10年近くを費やす彷徨の軌跡にお付き合いいただくしかない。これを外から見ると、モラトリアム人間の典型ということになるのだろうか。しかしこの期間がなかったとしたら、その後の私の仕事は全く存在しないのであるから、かけがえのない時間だったというしかない。

1972年、昭和47年の3月に高校を卒業したが、当時、大学紛争が終わった後で「しらける」という言葉や思想がはやった世代にいて、人生どう生きていくかに悩む学生だった。早くから国家公務員志望で社会に貢献したいと考えていて、当然のように文科Ⅰ類に入学した。当時、宗教との接点は全くといってよいほどなく、家は通常の檀家仏教であった。そのような精神的空白を埋めるように、大学に入ってからは、キリスト教思想家の著作に魅かれ始めていた。キリスト教という宗教に対する関心とともに、西欧の学術文芸への憧憬が強かった。この両方を満たしてくれたゼミと講義が二つあった。杉山好先生の「バッハのヨハネ受難曲を読む」。レクラム文庫で歌詞を読みながらレコードを聴くという内容で、これは学部1年に入りたての頃だったように記憶する。もう一つが、2年次の英語の講義で、担当は日高八郎先生。この二つは、自分で何か積極的に調べて考えるという自発性を培ってくれたものであった。

特に印象的だったのは、日高先生の授業である。まず自分で読みたい本がある者はそれを自修で読み、1,2回面談をしたのち内容をレポートにして提出するというもので、自修を希望しない者だけが通常のクラスで授業を受けるというものだった。私は思い切って、欽定訳聖書のヨハネ福音書を読むことにした。訳文を克明にノートに書き、その意味するところも自分で考えながらエッセイ風に書き進めた。その作業と並行して、杉山先生訳のキルケゴール著『キリスト教の修練』を読んでいたように思う。ヨハネ福音書のノートはどこかに隠れてしまって、もはや日の目を見ないが、このノートは自分が何かを思索するということを初めて試みたものだったのではないか、と懐かしく思い出す。

さて、本郷では、法学部の授業に欠かさず通った。必要な知識を修得するために講義を受けている感はあったが、法解釈学の方法論はずいぶんと鍛えられたのだろうと思う。しかし次第に、卒業後の国家公務員という選択は果たして自身の一生の仕事だろうかと疑問を感じるようになり、いつも大教室の最後列に座って全体を眺めていたように思う。

他学部聴講の制度は大変にありがたく、将来の職業とは関係なく自分の興味と関心を深めようと、文学部で開講されていた旧約聖書ヘブライ語入門と旧約聖書原典講読を欠かさず履修した。担当は後に指導教官となる後藤光一郎先生であった。私は、駒場で古典語を一切学習しなかったので、ギリシア語やラテン語では後れをとったと感じていて、その点ヘブライ語は3年次で初めて受講できるという魅力があった。何より、聖書の預言者を原典で読みたいという希望を満足させてくれるものであった。文学部は法学部の学生にとってうらやましかった。講義や演習は少人数で、学生と教員との距離が近く感じられたのだ。事実、この科目を履修したおかげで、法学部卒業とともに、人文系の大学院に進学することに抵抗を感じることがなかった。

私が国家公務員志望から聖書研究へと方向を変えるにあずかって力があったことが二つあった。一つは、法学部の2年間に演習を履修できたことである。当時、法学部で学生に演習を受けさせることを本気で考えだしたのが幸いした。これは、人文系の大学院受験もおぼろげながら視野に入れていたので、英語とドイツ語のテキストを読んで思想を学ぶ絶好の機会であった。3年次だったか、法哲学の碧海純一先生の演習を選んだ。「宗教から哲学へ」という英文テキストで、古代ギリシア思想の展開を学ぶ内容だった。演習には毎回、駒場から長尾龍一先生が駆けつけて、ギリシア語の引用部分を補ってくれた。4年次には、政治学史の福田歓一先生の演習で、ヘーゲルの歴史哲学講義を原典で読んだ。そのおかげで、学問をしたという充実感を味わえたように思う。もう一つのきっかけは、公務員試験に落ちたことである。10月に結果が判明した後、即座に宗教学の大学院受験を決めた。宗教思想を学びつつ語学2つを復習していたからこそ、曲がりなりにも進路を変更する決断ができたのだろうと思う。

そして、大学院に入って、旧約聖書学を専攻する大学院生活が始まるのであるが、実はここからまた、模索の時間が始まった。しばらくの間、旧約聖書学のさまざまな著作を熱心に読んで、自分の専門領域を探し始めたのだが、聖書学という学問が実はキリスト教の学問だということに当初全く気付かずにいた。先行研究はほとんどが欧米、特にドイツのものが圧倒的に多くまた重要であった。研究自体も、ヘブライ語の原典を熟読するというよりは、ドイツ語の専門書と格闘することが中心で、先人の研究成果を吸収することが何より求められていたように思う。私も最初は諸先輩にならってドイツへ留学し、バッハのオルガン曲を教会で聴こうなどと安易に考えていた。ところが、自分はクリスチャンではないので、だんだん研究方法も研究対象も違和感を覚えるようになってきた。なにか自分のやりたいこと、求めていることと違ったのである。それは、「ウェーバーのエートス論―古代ユダヤ教を中心に―」という題で修士論文を書き終わって、さらに3年近く煩悶の日々を送る中での思いであった。決定的な瞬間があったのか定かではないが、イエス・キリスト以後のユダヤ教の研究こそ、自分のやりたい研究だと確信を持つようになっていた。旧約聖書学ではなく、ユダヤ人が聖書をいかに読み実践してきたかということである。

博士課程も3年になろうとする頃から、ヘブライ大学でタルムードを学ぶことを目標に、東京在住のイスラエル人に現代ヘブライ語の家庭教師をお願いするようになっていた。その一人、小学校の先生の資格を持つ婦人から習ったことが、おそらくはユダヤ教の魅力を肌で感じた決定的な機会となった。日本の将来を本気で心配して質問攻めにすること、家族のきずなの強いこと、東京のインターナショナルスクールで息子たちが経験した反ユダヤ主義の事件、小学2年生がラシの註釈付きで創世記を学ぶこと、そして話題がショアーに及んだときの言いようのない悲しい表情など、今にして思えば、ユダヤ人との最初にして強烈な出会いであった。そして私は、イスラエル政府奨学金を得て、エルサレムへと旅立ったのである。すでに28歳になっていた。