裏返ったRが運命を決めたわけではないけれど

三谷 惠子(スラヴ語スラヴ文学)

文学部に学生が進学したがらない、世間では文系学部不要論まで現れる、と何かと肩身の狭い文学部教員になってしまった私ですが、考えてみたら、文学部のマイナーさは、今に始まったことではないようにも思います。

私が高校時代、というのは今から40年も前のこと、クラスメートのほとんどが、男子も女子も、将来の職業を考えて受験先を決めているようでした。とくに理系志望が多かったクラスの中で、迷わず「文系」、しかも「ブンガクブでことばの勉強をする」などという生徒は、周囲から、文学部?将来どうするの?などと言われたものです。でも、自分がやりたいことをやらずに大学に行ってどうする、とまで考えたとは思いませんが、とにかく私は、文学部のある東京大学を選びました。

私の中で言葉への関心がいつごろ芽生えたのか、それはよく覚えていません。学問とは縁のないサラリーマン家庭に生まれ、東京の区立の学校に通っていたので、日本語以外の言語にふれる機会が特にあったわけでもなく、謎めいた外国語の本が家の本棚にあったなどということもありませんでした。それでも中学生のとき、姉が駒場に入って、どういうわけか第三外国語でロシア語をとり、わが家にロシア語の教科書と辞書が侵入してきました。その教科書を、後に私はお古でもらうことになるのですが、初めてキリル文字を見て、Rの反転した文字Яにびっくりしたのをよく覚えています。もしかたらあれが今の私の始まり(運の尽き?)だったのかもしれません。何にせよたぶんそのころ、言葉に関する興味が芽生えたのでしょう。

高校では、英文法や古典文法の授業がありました。たいていのクラスメートは、文法の授業が好きではなかったようです。でも私は大好きになりました。古典文法の係結びを初めて勉強したときにはすっかり感動してしまい、英語の先生が見せてくれた古期英語の文法の本に、これまた大感動。こういうことに感動する女子高生というのもそうとう変ですが、でもこれで私の「文法大好き」人生の基本路線は決まってしまったようなものだったわけです。

そうして東大に入った私にとって、「大学での勉強」とは「外国語の勉強」でした。といっても当時駒場で勉強できる外国語は、独仏露に中国語、あとは古典語くらいでした。いろいろやってみて、基本的に「変化表」がある言語が好きなのだということがわかり、中国語は放棄。でも第二外国語は、なぜか、あのЯでショックを受けたロシア語ではなく、ドイツ語でした。なぜドイツ語を二外にしたのか、理由は思い出せませんが、私のことだから、ドイツ語では「25」は「にじゅう ご」ではなく「5と20」というのだ、という程度のことに感動したのではないかと。そして第三外国語でフランス語と古典語に手を出し、結局ロシア語は、NHKラジオ講座による自宅学習語となったのでした。

駒場から本郷に進学するさいには、迷いました。言葉の勉強をしたいというのはわかっていても、その対象が定まりません。あの頃の私は特定の言語に関心があるというよりは、言葉を勉強することが楽しかったので、そう、何語でもよかったのかもしれません。ドイツ語にするか、フランス語にするか、それとも日本語にするか。結局、個人では勉強できそうにない言語をやろう、と決めました。私が学部生の頃といえばまだ80年代、ロシアはもちろんソ連であり、いわゆる鉄のカーテンの向こうにあって、今なら当たり前のような情報入手もままならない頃でした。ことばにしろ文化にしろ、本格的にロシアのことを勉強するためには、大学という場できちんとやるしかない、そう思ったのです。それでロシア語ロシア文学専修課程(今のスラヴ語スラヴ文学専修課程)に進学しました。

進学したとはいえ、本郷に来た当初の私のロシア語力といえば、まだ格変化も頭にはいっていない程度。予習のさいに5色のマーカーを並べて、主格は黒、対格は赤、与格は緑、と色分けした授業のプリントににんまりし、それを持って授業にのぞむ日々でした。ちなみにロシア語の格は6つあるのですが、5色あれば当然、色のついていない名詞が残りの格ということで、形のわかりやすい前置格が無色でした。なんでこんなことを今も覚えているのかと我ながらあきれてしまいますが、たぶんそれだけ一生懸命だったのでしょう。

授業が進むうちに5色マーカーはいらなくなり、だんだん難しい文も読めるようになり、読むことが楽しくなりました。といっても読んで楽しかったのは文法書です。ドストエフスキーの『罪と罰』の冒頭を丸暗記して、などと、どこかの有名な先生のように言えば多少は人も尊敬してくれるのでしょうが、私はヴィノクールというロシア語学者の書いた『ロシア語』という著書の冒頭を暗記して、うっとりしていたのでした。ほんとにどう考えても、変ですね。

学部からそのまま同じ専門の大学院に進学することには、迷いはありませんでした。文系マイナー分野の就職難は今に始まったことではなく、私たちが学生の頃も、人文の大学院?先の就職なさそう、とか、でもまあロシア語ならつぶしがきくかもね、などと、別のもっとメジャーな専門の友人に気の毒がられたり慰められたりしたものです。でも就職なんていざとなればどうにかなる、と妙にその点だけは不安がなかったように思います。

その後、大学院の博士課程で、ロシア語と同じスラヴ語圏にあるユーゴスラヴィアに留学する機会を得ました。私が留学した先はクロアチア、当時は「クロアチア社会主義共和国」という名称の国でした。そこで学んだことや体験したことは私の今の研究に大きな意味をもっています。それで私はいまだに身内に「来月またユーゴスラヴィアに行く」などと言い、そのせいか親戚の一部はつい最近まで「ユーゴスラヴィア」という国がまだあると思っていたのでした。

私の選択は、要するに、自分のやりたいことを選ぶという単純なものでした。進路に迷っている人には、まず自分に素直に問いかけて、やりたいことをやってごらん、と言いたいと思います。