重藤 実(ドイツ語ドイツ文学)

人は誰でも、やりたいことを多く持っている。実現できそうなものもあれば、実現のむずかしい夢もあるだろう。若ければ特にそうだろうが、年を取っても、やりたいことがなくなるわけではない。生きているということは、常に選択を迫られ続ける、ということでもある。選択するということは、選んだもの以外の選択肢を捨てる、ということでもある。自分の学生時代の頃(数十年前のことです)を思い出してみると、やはりやりたいことは数多くあった。そのうちいくつが今までに実現できたのだろうか。

大学受験を考えた時は、歴史に興味があり、漠然と、文学部で日本史を専攻するのも悪くない、と思って文科Ⅲ類の受験を選択した。もちろん、東大教養学部は専攻をすぐに決めなくてもいいというのも、東大を選んだ動機の一つだった。しかし駒場の教養学部生だった頃、英語やドイツ語を本格的に学び、言葉への興味が大きくなった。考えてみれば、東京生まれ東京育ちの私が父親の仕事の関係で10歳から4年間を大阪で過ごして、言葉の違いを身をもって体験したことが、言葉への関心の始まりだったのかもしれない。中学2年の時東京へ帰ってきて転入したクラスの授業で、質問しようとして「先生!」と見事な関西アクセント(第1拍に高いアクセントあり)で発言して、皆に笑われたことをよく覚えている。トラウマになった、というほどではないが、その時、これからはできるだけ大阪弁は使わないようにしようと決心した。駒場で本格的に外国語を学び、言葉そのものを研究対象とすることに魅力を感じたのも、当時の自分としては自然なことだったのだろう。ただし歴史への関心が無くなった、というわけではなく、それ以上にやりたいことを見つけた、というだけのことである。歴史を研究対象とすることはなかったが、今でも歴史に関する本を読んだり、歴史に登場するような場所を訪れることは好きだ。

このような経過で、進学先としては、文学部で言語学を専攻することを選択した。もっとも、駒場時代はせいぜい言語学の入門書を読んだぐらいで、よく調べた上で進学先を決めた、というわけでもない、幼い学生だったと今では思う。文学部言語学科では、言語学の基礎を学び、ドイツ語学に関する卒業論文を書いた。卒業後については、まだはっきりとした将来像を描いていたわけではないが、もう少しドイツ語学に集中して勉強を続けたいと思い、大学院はドイツ語ドイツ文学を選択した。その間、さまざまな先生方や仲間の学生たちと出会い、研究分野としてのドイツ語学の広さにも触れることができて、駒場での進学振り分け時には想像もできなかったような、充実した学生生活を送ることができた。

次に大きな選択をしたのは、留学先をドイツにしたことだと思う。独文所属の学生としては当然の選択に思われるかもしれないが、自分としては、アメリカという国をもっと知りたかったし、文法理論を中心に研究するためにも、アメリカへ行くのも悪くないと思っていた。しかしドイツ語学の研究については、狭い意味のドイツ語の知識だけでは不十分で、文学研究を含めた広い知識を得る貴重なチャンスだと思ったのが、結局ドイツを選んだ理由だった。もちろん、奨学金を得ることができたというのも大きかった。ドイツでは、長い伝統を持つドイツ文化圏におけるドイツ語学を学ぶ機会を得て、とても有意義な滞在経験となった。その後、結局アメリカに長期滞在する機会は今までなかったが、アメリカへの関心が無くなったわけではない。

このように自分の現在の専門を選んだ経過を振り返ってみると、様々な状況において、自分なりに考えて、その時点でベストと思える選択をしてきたことは間違いない。しかしその時点で未来を見通すことができたわけではまったくなく、振り返って考えてみると、選択した時点では予期していなかったような出会いに恵まれた、というのが実際である。もちろん別の選択をする可能性もあっただろうし、そうしていたら、よりよい人生だった可能性ももちろんある。しかし人間は二つの人生を生きることはできないわけで、自分の選択が正しかったかどうかを厳密な意味で検証することなど、できるはずもない。結局は、その時点で納得のできる選択であったかどうか、ということだけが重要なのだろう。

専門の選択に限らず、やりたいと思っていても選択できなかったことは数多くある。その一つが、山登り。若い頃、特にスポーツが得意だったわけではないが、体を動かすことは嫌いではなかった。走るのが早かったわけではないが、歩くのは好きで、いつか趣味として山登りをしたらいいのではないか、富士山にも一度は登ってみたいものだ、との気持ちは持っていた。教員となってからも、しばらくはジョギング程度のことはしていたのだが、次第に仕事が忙しくなり、家庭でも、特に子供が小さい頃は子育てに忙しく、余裕がなくなってきたのだろう、体を動かすと言えばせいぜい散歩ぐらい、という生活が長く続いた。そこで8月のある日、富士山に登ってみようと思いたった。富士山が世界遺産に登録されるよりも前ではあったけれど、当時から夏の富士山は、特にご来光を見ようとする登山者でいっぱいだった。しかし私は特にご来光にこだわる気持ちはなく、とにかく自分の足でどこまで登れるのかを試してみようと、昼間に登ってみることにした。一応できるかぎり情報を集め、それなりの準備もして、ほとんど山登りの経験のないままに、一人で朝一番の列車で出発した。5合目から歩き始め、天候にも恵まれて、8合目まで、標準時間よりも短い時間で快適に登って行った。頭痛など高山病の症状もまったくなく、楽しい時間だった。しかしその後しばらくして、急に疲れが出たような感じで、足の進み方が遅くなってしまった。9合目から先は、やっと歩いているようなペースだったが、とにかく山頂まで無事に到達することができた。やはり空気が薄いのに身体が適応できなかったのかもしれない。もっと若ければ、きっともっと速いペースで登ることができたのだろうと思い、もう若くはないことを実感した。今から考えてみると、これは弾丸登山という登り方の一種で、あまり好ましくないのだと思う。しかし当時の私は自分の足でどこまで登れるのかを試してみたかっただけで、特に山頂に到達することを重視していたわけではなく、疲れたら途中ですぐに下りてくるつもりだった。結果としては、その時点でできることはやって、無事に富士山に登って下りてくることができたわけで、満足している。

選択するということは、選んだもの以外の選択肢を捨てるということなのだが、ある時期に選択できなかったことも、それで終わりとは限らない。将来、別の形で実現できることもある。それも、将来の自分の選択次第、ということなのだろう。