見知らぬ「美学」を追い求めて

小田部胤久(美学芸術学)

進学先について真剣に考えた始めたのは、今からちょうど40年前の夏、高校生活も中盤にさしかかったときである。現在の駒場生に参考になりうるような事柄があるのか、甚だ心許ないが、記憶の糸を可能な限り正確にたぐることにしよう。

その頃の私は音楽を生業としたいと思い(ピエール・ブレーズに夢中であった)、実際に音楽の先生のもとで楽器や作曲などを個人的に習っていたが、教室では音大生も通常の大学生も一緒に学んでいたため、音大に行く必要性も感じず(本当は、音大に行く決心がつかなかっただけかもしれない。昔のことはとかく「理想化」しがちなので、実際のところは今思い出す姿以下のはずである)、書店で文学部美学科卒の野村良雄先生が書かれた『音楽美学』を見かけたのをきっかけに、(一応通読したとはいえ、この本の中身は全く理解しえなかったと思うが)「音楽美学」という学問のあること知り、(この名称への密かな憧れから)それを学びたいと考えるにいたった。柴田南雄(美学科卒の作曲家)の奥様の純子先生(ヴァイオリニスト)が、私のヴァイオリンの師匠と同門で、私の気持ちを後押ししてくださったことも心強かった。高校の音楽の先生も、高校の先輩で美学研究室にて音楽理論を学んだ人を早速紹介してくださり、その方と電話でお話ししたこともある。「音楽の勉強?まあ、できないわけではありませんが……」といった調子の、あまり積極的に勧めるという感じではない話しぶりであったが、それでも大学に入ったら美学を学ぶことは既定路線となった。

ところが、入学して駒場で勉強を続けている内に次第に雲行きが怪しくなる。美学にかかわる授業が一年目に全くなかったことから、美学の「要望科目」などいろいろ勉強してみたにもかかわらず、一年次が終わる頃にも「美学」とは何か皆目わからないままであったし(これは当時のカリキュラムのせいである)、さらに、駒場の先生方やあるいはサークル等の先輩に進学希望先を問われて「美学」と答えると、ほとんど常に「ともかくそれだけはやめておいた方がよい」といった否定的答えが返ってきたからである。こうした忠告も根拠の全くないものではなかった。当時の美学研究室は厳格をもって鳴る今道友信先生がお一人で切り盛り(というか君臨)されていたため、たしかに傍目で見て、自由な勉学が保証されているという雰囲気ではなかった。また、先生は学生運動反対派の急先鋒でいらしたため、まだ学生運動の余波が続いていた大学構内では「弾圧教師」というレッテルが貼られていた。「美学研究室はバリケードと便器だらけで近づけない」と教えてくれた先輩もいて、美学のイメージは私の中でいつの間にか汚物と結びついてしまった(本郷に進学してから「便器」は「ペンキ」の聞き間違いであることがわかった)。そうこうするうちに、美学を志していながら独文や教養学科に志望を変えた友人も出てきて、ちょうどその頃音楽にではなく研究に従事しようと決心した私は、少しずつ焦り始めた(この経緯についてはかつて東京大学新聞の企画『青春の一冊』で書いたので、ここでは省略する)。教養のドイツ科には音楽に詳しい先生が何人かいらっしゃり、いくつかの授業に潜って専門の雰囲気を味わってみた。「まずは語学をしっかり身につけることが大事だ」という先生方のお考えはよく理解できたが、ドイツの政治・経済など自分の学びたいこと以外に時間を費やす気にもなれず、かといって文学部の他の専攻に進む勇気もなく、結局やりたいことをやろうと、もともとの希望の美学に進学することにした。

もともとの希望とはいっても、美学芸術学研究室に実際に進学して学ぶ「美学」は全く新鮮だった。それもそのはず、私はそれまで美学とは何か全く知らなかったからである。だが、翻って考えてみれば、文学部で行われている学問は恐らくすべてみな、このように学生の予想を裏切りつつ、学生の期待を遥かに超え出る性格のものなのではあるまいか。

今道先生の授業の迫力は他に例を見ないものであって、私は徒弟として自らを鍛えることに専心した(このことについては、『中央公論』2013年2月号に寄せたエッセー「畏れと怖れ――徒弟として過ごした日々」で触れた)。最も心に残っているのは、一字一句ゆるがせにせずに古典に接しながら、行間から意想外の解釈を引き出す先生の手腕である。これがテクストを読むことなのかと、目から鱗が落ちる思いがした。とはいえ、高圧的あるいは強圧的とも見える態度の先生に(心の内で)反発していたのも事実で、重圧感からの捌け口を求めていろいろ他の学科の授業にも出て、何か別の美学がありうるのではといろいろと模索した。とりわけ心に響いたのは坂部恵先生の哲学の授業であって、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』の演習をきっかけに現象学的美学も囓ってもみたが、先生の書かれた『理性の不安――カント哲学の生成と構造』を通してカントの面白さに開眼し(たつもりになり)、3年次の終わりにはカントの『判断力批判』について卒業論文を書こうと決めた。

こうして、たった5年の内に「音楽美学」への密かな憧れからは想像もつかない地点にいたったのであるから、もともとの希望通り「美学」を学んだとはいえ、初志貫徹とは到底いえそうにない。そんなに立派な初志など存在しなかったのであろう。ただし、美学の掌の中をいろいろ彷徨するきっかけが5年前の初志であったことも事実である。実際、ある一定の関心に導かれて探究を続けるからこそ、学問はそれにつれて常に思いがけない相貌と展望を示してくれる。どんな小さな関心であってもそれを大切にしていれば、それを超える局面がふと訪れる。その時私たちの内に、いまだ漠としてつかみ所のない関心が、新たな展望への予感が呼び起こされ、私たちを新たな探究へといざなう。世代を超えた探究の連鎖の面白さに身を晒してくれる学生は、すでに私たち研究者の同志なのである。