葛西 康徳(西洋古典学)

文学部進学ガイダンスの「私の選択」では、専任教員の専門選択に至る紆余曲折が披露されることが多いようだが、学生諸君はこれをどのように受け取るだろうか。進学ガイダンスは学部教育の内容を説明するのが目的だから、教員が自己の選択(専門科目)を語るのは当然と言えば当然だが、何か違和感を抱くのは(日本の)文学部の出身ではない私だけであろうか。確かに、文学部学生の相当数(三分の一以上?)が大学院に進学し、かつ(大学)教員を目指すのだから、このやり方で問題はないのかも知れない。しかし、裏返せば、過半数は卒業後「社会」に出て、教員以外の職業を選択するのである。その際、文学部はそもそも職業教育(vocational education)を行うところではないし、大学で学ぶ学問内容と社会ないし職業は、科目によって差はあるが、原則的には切れている。それゆえ、ある学問分野を「選択」して、それをそのまま職業としている教員が「選択」について語るのは、学問と社会が切れていない印象を与えるのである。これは過半数の学生には当てはまらない。だから、過半数の学生にとっては、そのような教員の物語は、あたかも選択をしていない人生のように聞こえるのではないだろうか。

だが、「選択」問題は、学問と社会または職業が切れているからどうでもいいのではなく、いやむしろ切れているからこそ、一層重要であると筆者は思う。そこで以下では、文学部を卒業して社会に出る、あるいは異なる分野に進学する学生を念頭において話をすすめたい。既に、専攻科目を想定し、将来研究者を目指している学生には、自分の(現時点の)関心から遠いもの(特に自然科学)を並行して勉強していただきたい、とだけ申し上げる。

本学学士教育の最大の特徴は、教養教育と専門教育の分離であり、その結果、「選択」は「二段階選択」となる。つまり、(後期入試を除けば)、まず、大学入試における科類選択、次に学部選択がある。さらに文学部の場合は、これに専修課程選択が加わるので、「三段階選択」と呼んだ方が正確である。最近は各科類が想定している学部に進学しない人が増えてきたそうであるが、これは大変歓迎すべきことである。ただ、文学部に進学してくる学生が減少するのではお話にならないので、ひとりでも多くの学生が来るように、文学部を宣伝したい。

そもそも、文学部が他学部に比べて、日本ほど小規模な国はないのではないだろうか?この理由は通常以下のように言われている。文学部は大量のビジネスマンや公務員などの「ジェネラリスト」を養成するのではなく、「専門家」、即ち「スペシャリスト」養成を目的としている。「デパート」ないし「スーパー」に対して「ブティック」と言うべきか。その意味で、「潰しが効かない」学部なのである。しかし、この命題は誤りではないか。むしろ、筆者は「文学部は他学部よりも潰しが効く」と主張する。

法学部や経済学部は現実の日本ないし国際社会を対象とした研究と教育を行っているのに対して、文学部は(科目間の差はあれ)現実とは時間的、空間的に遠い世界を扱っているから、あるいはまた、学問内容が「抽象的」なので、「潰しが効かない」というのであろうか?この推論は全く根拠が無い。まず、法学部に関して。日本は「法化社会」ではなく、また将来もそうならないことは、既に日本型ロースクールの失敗で明らかになった。現実社会を「法的」に扱っても潰しは効かないのである。そもそも、法学は必ずしも現実の日本社会を扱っていない。多かれ少なかれ「抽象化」ないし「概念化」した人間と社会を扱っている。一方、経済学は仮説と抽象的理論のオンパレードである。つまり、法学部や経済学部が「潰しが効く」と言われるのは、其々の学問が、あえて極論すれば、現実社会を扱っていないからなのである。

では、現実社会を扱っていないことにおいては右に出るものはいない文学部が、なぜ潰しが効かないと一般に信じられているのであろうか?筆者は、この信仰は日本独自のものであると考える。なぜなら、やや飛躍するが、例えば公務員試験の試験科目を見れば明らかなように、制度に原因がある。文科系の国家公務員試験第一種のカテゴリーは、「法律」、「行政」そして「経済」である。「哲学」、「文学」、「歴史」というのがない。第二種(専門職)ならともかく、なぜ第一種が、特定科目を優遇する必要があるのか。しかし、文学部の教員がこれに疑問を抱かない。不思議である。

では、制度上の問題だけであろうか?筆者は本当の原因は、まず、「専門」ないし「専攻」という概念の多義性、あるいは意図的な曖昧さにあると考える。文学部は「専門化」されており、そこでの知識や経験はその分野に特有のものであり、他の分野、さらに社会や職業には「応用」が効かない、即ち「潰しが効かない」と(誤って)信じられているからではないかと思う。実際、本学部の場合、30近い専修課程において要求される能力や水準は外観上異なる。具体的に言えば、言語(日本語を含む)の習得だけで、学士課程は終わると言ってもよい。また、同じ専修課程であっても卒論作成過程で、各人の研究対象や関心が分散する。この結果、文学部は非常に細かく「専門」分化しているように見えるのである。換言すれば、「共通部分」が少ないように思われている。しかし、本当にそうだろうか。

まず、学部便覧を冷静に読んでいただければ判明することだが、各専修課程における「必修科目」の単位数は全体の単位数の約半分である。つまり、各専修課程は相互排他的ではないのである。以上は、共通部分が存在することのいわば消極的理由である。では積極的に文学部には「共通部分」があると言えるか。

筆者はここで、多義的な「専門」概念に代えて、「集中(Concentration)」概念を導入すべきであると提案する。専門課程は2年間と短い。従って、修士課程、博士課程と進んで、専門を「深めたい」と学生は思う。それに対して、筆者は言いたい。2年間は決して短くない。「集中」すれば2年間は十分長い。いや、2年間以上、持続して同じことに集中できるだろうか?この集中できる対象を見つけることができるかどうか、それは、人との出会いを含めて、「偶然」にかかっている。しかし、30近くある品目の中から、一つを「選択」するのは各個人であり、「偶然」ではない。仮に、「籤引き」で決めるにせよ、そのような方法を「選択」したのは自分自身である。このような「選択」を経た「集中」こそが、文学部の「共通部分」であり、他学部には見られない「スリル」である。

学部学生時代、哲学であれ、文学であれ、歴史学であれ、「読んで、読んで、読みまくった人」が、「シティ」を闊歩する。筆者は、文学部卒業生にビジネスマンや公務員になってほしいと言っているのではない。しかし、学部時代何かに「集中」した人は、「潰しが効く」のだということは疑ったことはない。